生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

一人前のふりなんてしなくていいのかもしれない、そもそも全然一人前ではないのだし

最近ここに書くことがあるとしたら、大体は記録的に残しておきたい場合か、自分の気持ちを整理したいときになっている。今回は完全に後者。だらだらと自分のしょうもなく、みっともない部分を書くことになると思うけれど、ご容赦願いたい。

※人によって不快な表現があると思うので、デザイナーとかクリエイター系の人はもしかしたらごめんなさいかもです。

最近の感じ

最近ありがたいことに、副業で行っている映像制作の方でご依頼をいただけるようになってきた。収益として安定するようになってきたことに加え、ちょいちょい企業様からもご依頼いただけるようになり、実績としてもありがたいご依頼が増えてきた。ご依頼をいただく前よりも、生活がいろんな意味で豊かになっているのは間違いない、ありがとうございます。

ただ同時に新しい問題、というか悩みのタネも出てくるわけで。今回は、そのお話。企業様からの場合、人によると思うが、クリエイター側でチームを組まれることが多い。僕は映像担当なので、他にもディレクターとか、デザイナーとか、イラストレーターとか場合によってはもっと増えたりするだろう。正直最初はめちゃめちゃ戸惑ったりしたが、一度経験してみるとなんとなく見えてくるものもあり、最近はそれぞれの専門分野で分業的に制作が行えることをありがたく思っていた。

「地獄」のはじまり

ただやっぱりそんなに上手くはいき続けないわけで、絶賛壁にぶち当たっている。これまでチームで制作を行う場合、僕は基本的に映像の部分、要するに動きを作る部分に集中して参加していた。もちろん最低限の簡単なデザインを行ったりはするが、その時に組んでいるデザイナーやイラストレーターを参考にしたりしていたので、0→1というよりは、Ver違いを制作するようなイメージだった。

こういう語り方をするということは、お気づきの人もいるかもしれないが、今私がぶち当たっているのは0→1の壁である。今私は0→1のデザインを制作するポジションに置かれているのだ。もちろん映像に使用するデザインなのだが、振り返ってみるとチームで0→1のデザインを制作するのは初めてだし(個人なら経験はある)、しかもチームには他にもデザイナーが数人いる感じだ。

そんな状況で、初めての0→1のデザイン。なんとか今までの経験を絞り出して、提出したが、そこからが地獄だった。いや地獄とかいうのは本当に申し訳ないし、向こうも仕事だし、なんなら善意で対応してくれているし、僕としても必要なことだというのはわかるのが、それらはさておき精神的に圧倒的に不安定になってしまっているので、ここではあえて「地獄」としておきたい。

提出を行うと待っているのは、チェック&コメントだ。チーム内のデザイナーたちに僕の作ったデザインを見てもらい、気になる部分をフィードバックしてもらい、調整するという工程が発生する。このチェックが地獄だった。振り返るとこの地獄の原因はシンプルなのだが、僕の人生経験上「デザイナーにデザインをチェックしてもらう」ということが初めてだったのだ。

正確に言えば知り合いのデザイナーなんかに、作ったの見て、という風にコメントを求めることはあったが、あくまでそれは完成後の感想としてもらっていた。しかし今回は、「制作中のものを、初見のデザイナーに見てもらう」という状況。これまでとは重みが全く異なる。そもそも完成後と制作中で大きな違いがあるのは、そのコメントを汲み取って調整(私は修正という言葉が嫌いだから調整としている)を行うことがあるということ。もっと言えば私が作った0→1が全部ひっくり返される可能性すらあるわけだ。

しかも相手は本職のバリバリ現役デザイナー。経験値がまだまだ足りていない僕のデザインを見てコメントが出ないわけがないのだ。しかもそんなこともあるかもと思い、とりあえずは早めに提出するもののコメントが返ってくるのに時間がかかったりする。いやわかる!皆さん忙しいし、こっちに割く時間ないよね!とは思うのだけど、どでかい爆弾を腹に抱えながら数日待つのは、個人的に結構堪える。

加えてそんな爆弾を抱えながらも打ち合わせとかは設定されるわけで、毎度何を言われるんだとビクビクしながら出席しなければならず、結局別の話だったりしても気疲れにより打ち合わせの前後は何もできなくなる。(もう俺これ映像制作、というかクリエイター界隈向いてないんじゃね...?と疑わずにはいられない。)

もちろん大前提として、上記のようなフィードバックを受ける機会を意識的に設けられていなかったり、本業でもそういう機会がなかったりして、シンプルに場数を踏んでいない感は否めないので、こんなもんか...と慣れていく必要もあるのだと思う(でもしんどいよね...)。

社会人数年目にして、1年目の気分を味わっているわけだけど(副業的にはまさしく1年目なのでそういうことかもしれない)、今日ついにデザイナーの方から打ち合わせで直接フィードバックをいただくことができた。

心をメッタ刺し

「求めていた作風と違う」

「全然このデザインがわからない」

「これではおそらく伝わらない」

「んん〜、わかんないなぁ...」

泣きそうだった。かろうじて必死にリアクションはしてたけど、もう全部が刺さりすぎて泣きそうだった、マジで。デザイナーの方が言ってることは間違いなく正論だし、向こうもこちらの映像が良くなるようにという善意で言っているのはわかるのだけど、だとしても馬鹿みたいに心のど真ん中ばかりを打たれまくってしまった。

そこから半日あったが、これらのセリフが頭の中を反芻して、ひたすらに現実逃避で昼寝をして過ごした。ただ寝ても覚めてもこの反芻が止まることはなかったので、結局ちゃんと向き合う必要がある、という結論に至り、これを書いているわけだ。

「しんどい」を考える

改めて考えてみると、どうしてこんなにも心に刺さったのだろう。さっきも言ったようにコメント自体は至極真っ当なものだし、悪意のあるものでもない。でもなぜか心のウィークポイントにズブズブと刺さり、泣きたくなってくるのだ。

いろいろ考えて一つ出たのは、自分の実力を過信していたこと。副業といってもある程度実績は出てきたし、場数も踏んできた。金銭的な面でも収益が安定してきた。その経験から俺は「それなりにできる」という感覚、みみっちいプライドがどこかにあったと思う。でもデザイナーから見たらそんなのは素人に毛が生えたどころか、素人レベル同然だ。その、ある意味で最近の自分を支えていた感覚、プライドがいとも簡単に打ち砕かれてしまった、そして改めて現実を思い知らされてしまったことが衝撃だったのだろう。

確かに、いつからかご依頼を受けはするものの自分のインプットの時間を減らしてしまっていたり、周りにフィードバックを求めることもなくなってしまっていた。どこか再生産的になってしまい、改善を怠り、現状で満足してしまっていたかもしれない。改めて、自分は社会人1年目であるということを自覚する必要があるんだ。「できない」が当たり前、わからないなら聞く、ちゃんと周りの力を借りる。一人前のふりなんてしなくていいのかもしれない、というかしなくていいんだ、そもそも全然一人前ではないのだし。

書いていて気づいたのだが、これ、僕が本業で他の新人に思っていることだ。できないならもっと言って欲しいとか、やり方から聞いてもらって構わないとか、もっと自分の状況をオープンにしようということを散々言ってきた。当の僕がやれていないにも関わらずだった...、申し訳ない。立場は違えど同じ問題にぶち当たっていると思うと、根は深い気もするが。

蛇足、存在について

少し蛇足気味だが、今回改めて思ったのは、僕は本当に僕に自信がないということだ。仕事がうまくいかないとその日を1日昼寝してしまうぐらいには、自分のよりどころを仕事に頼っている。昔からだが、僕は自分に対して「やってきたこと」を評価する癖があって、「自分の存在そのもの」を愛せていない部分がある。ここ5年でだいぶまともになったと思ったけど、実際は全然そんなことないっぽい。この考え方、というか感覚は自分を不幸にするだけだから治したいなぁと思いつつ、こいつこそ人生単位で向き合う問題になりそうだ、はぁ〜嫌だ嫌だ。

終わりに

というわけで久々でした。弱音ばかりを吐いてしまい申し訳ないが、それはもう許して欲しい。そもそも僕が文章を書く理由って、自分の辛さを吐露する場所ということもあるから。むしろこの場所の存在意義なので、これが苦手という人はおそらく読まない方がいいと思う(何を今更)。久々に文章を書くとやっぱり気持ちが落ち着くし、何より心地がいい。これからはせめて月1更新とかできたらいいと思うけど、おそらく無理なので、また気持ちが滅入ったときにでも書きにきます。とりあえずは社会人1年目。いろいろ泣きじゃくりながら、ぶっ倒れない程度に頑張ります。楽しんでいこ。

11年目の3.11

海岸の写真

 

3.11について昨年もエッセイを書いた。

becinema.hatenablog.jp

 

あれから1年がたった。
日付を跨いだタイミングで、今日が3.11だということに気づいた。実は昨年の10月に仙台に行った。目的は友達に会うためだったのだけれど、その中で震災関係の施設にも行ってきた。

11年目。とてつもなく長い時間をかけて、やっと赴いた。10年目まで何もしなかったという事実から、シンプルに訪れることは決めていた。

多くは書かない。行ってみなければわからないことの方が圧倒的に多いからだ。こんな時に、そんな月並みな表現しか出てこない自分の頭を恨めしくも思う。

ただ、伝えたい。被災地には名前があることを。そこに住んでいた人がいたことを。そこに様々なものや空間や空気があったことを。

そして僕たちがやるべきことは、嘆き悲しむことだけではないことを。備える。せめてもの、僕たちにできること。地震がきっかけで東北や兵庫で起きたことを学び、次がある時に少しでもより多くの人が助かるように。

次はある。間違いなくある。それはいつか、どこかもわからない。でもある。だから備える。「いざ」が来てしまうから。その思いを、姿勢を、少しでも伝え広げるということも、11年目の僕の答えだ。

 

youtu.be

人生にはハンドルがあるんだということ

車のハンドルの画像皮肉なもので、文章を継続的に書かなくなってから、このブログは人の目に止まる機会が多くなったようだ。最後に記事を更新したのが5月なので、約半年の間、まとまった文章を書いていなかったことになる。その間の話を少し書きたい。

文章を書かなくなった理由は単純で、書けなくなったからだ。と言っても、気持ちの問題とかではなく、物理的に時間が足りなくなったからという、さも社会人らしい理由で。4月から僕は、かつてから趣味で行っていた映像に本腰を入れ始めた。要するに、しっかりと商売(副業)にしていく、継続的に制作を行なっていくことにしたということだ。その結果、仕事が終わってからは毎日映像を作っていて、たまの休みも諸々のやることに追われ、文章を書くということに時間は避けなかった。

そんな中、なぜ今僕がPCに向かっているのか。それは、自分を少し振り返る時間を設けようとしているからだ。4月から約半年間、僕は間違いなく頑張った。そう言えるだけのことをしてきたし、実際に映像という形でも残っている。でもここ最近ふとよぎるような思いがあった。なんでこんなに頑張っているのだっけ、と。

もちろん今でも映像は好きだし、ああいう作品を作りたいとか、こういう仕事をしてみたいというモチベーションはある。ただ心と体が一致しないことが多くなった。具体的にいうと、制作に取り掛かるまでに時間がかかるようになってきたのだ。今まであれば、作業場についたら、よしやるぞ、という感じですぐにPCを開いて作業をすることができた。でも最近は、少し様子が違う。作業場についても、だらだらとYoutubeを見て、やっとのことで作業を開始する。始まったと思ったらすぐにSNSを見てしまい、作業に戻るのにもこれまた時間がかかる。

個人的にもっと顕著だなと思ったのが、仮眠の時間だった。僕は作業を開始すると1時間程度で一度ものすごい眠気に誘われる体質(?)だ。そんな時は眠気に体を任せ、アラームもつけずに仮眠をとることにしている。なかなかすごいことだと思うのだが、この仮眠に関しては約15分で自然と目が覚めるようになっている。しかし、その仮眠の時間がここ最近伸びていることに気づいた。正確には測っていないけれど、30分以上になることが多く、1時間近く寝ていることもあるようだ。昨日なんか3時間寝ていて、1日が終わっていた。恐ろしい。

そんな感じでどうも体が何かしらおかしな状態にあるような気がして、ふとこれまでを振り返ってみたところ、4月以降、まともに休んでいないことに気がついた。いやもちろん休んでいるし、友達と会うし、ゴロゴロするし、旅行にも行くのだが、制作をしない期間というのを作れていなかったのだ。週に一回は制作を休むようにしているのだが、それも最近はできたりできなかったりしている。逆に言えば2日以上、制作についての行為をしなかったことがほぼなかった。そのせいか、この間久しぶりに2日間映像を作らなかった週末は、とてもとっても楽しかった。

こんな生活をしていると、映像制作がない生活が考えられなくなってくる。最近特に顕著なのが、週に1回の休みの日に、「することがない」という虚無感に襲われることが出てきたこと。今まであればアニメや漫画、映画、ゲームなどなど、映像制作でできなかった趣味を行う時間になっていたのだけれど、それらを一気に長時間消費することもできなくなってしまっていた。漫画は一冊も読めないし、アニメは3話ぐらいが一気見の限界、ゲームに関しては電源をつけることすら億劫になっている。

極め付けは、なんと休みの日に映像を作ろうとすることだ。やることもないし、なんか制作するか、というテンションで意味もなく、映像を制作することが出てきてしまった。さすがに、これってちょっとまずいんじゃないかと思い始めた。

ワーカホリック。そんな言葉が僕の頭をよぎる様になった。そもそも僕は働きたくなくて、極力残業がしたくなくて今の職場にいるし、なんなら将来、海外での生活を目指している。でも思考はそうでも、現実、僕の気持ちはそちらに向いていない。気づいたら常に働こうとしている。

別に僕はハードワークを否定しているわけじゃない。働きたい人は働いて、そうでない人はそうでない生活を送れればいいなと考えているだけだ。ただし、僕はハードワークをしたくないと考えているのにハードワークをしかけているので、そこは誠に遺憾なのだが。

その結果僕に起こっている大きな問題が、私生活の消滅だ。かっこいい言い方をしたけれど、要するにプライベートでの生活が圧倒的におざなりになっているということ。丁寧な暮らしとは真逆、というか暮らしが消失しかけている。家事とかは行なっているけど、それ以外の人生の楽しみを享受する時間や体力、好奇心や余裕がなくなっている。かつて、いや現在の僕も嫌っている、プライベートを、人生の大きなフリータイムを楽しまない人間に、僕自身がなりかけているのではないかと、ここ最近強い不安を覚えた。

そのために書いた。まずは気持ちを落ち着けるため。僕を僕たらしめる大きなものである文章を書くため。自分の人生をちゃんと生きるため。僕の好きな映画でこんなようなセリフがある。「人生のハンドルは自分が握らなくちゃ」。僕は僕自身の人生のハンドルを握っているようで、実のところふかしすぎたアクセルに引っ張られていたのかもしれない。

とりあえず少しの間、映像制作を休もうと思う。自分が本当に生きたかった人生がどんなものだったのか、向かう先はどのようになってほしいのか。そんな当たり前だけど大切なことをちゃんと見るために、今は少し立ち止まっていたい。