『若おかみは小学生!』感想 「子ども向け作品の皮を被った緻密な作品」54、55、56、57日目
#映画
こんにちは、カシコです。
先日テレビで放映していた、『若おかみは小学生!』(2018)を見たので、
感想を書いていきたいと思います。
ネタバレがっつりで書くので、見たくないかたはお気を付けください。
※一度見た覚えで書いていますので、大体あっていると思いますが、細かい部分のミスがあるかもしれませんので、ご了承ください。
<主な登場人物>
おっこ:この作品の主人公。両親を事故で亡くし、祖母の経営する旅館で、若おかみとして修業中。小学6年生の優しくいい子。
真月:おっこの同級生。温泉街の大きな旅館の跡取り娘。小学生にもかかわらず、旅館経営に積極的に関わっている。温泉街の質を落とすとして、おっこやおっこの働く旅館を快く思っていない。
ウリ坊:おっこが働く旅館に住み着く幽霊。おっこの祖母の子供時代の友達。おっこに若おかみになってほしいとお願いし、その後もサポートを続ける。
美陽:おっこにいたずらを仕掛ける幽霊。その正体は、真月が生まれるまえに亡くなった、真月の姉。見た目は7歳のまま。
他にも多くのキャラが出てきますが、大体この4人を押さえておけば問題ないと思います。
<簡単な物語>
主人公のおっこは、祖母が営む温泉街に両親と遊びに来ていた。地域に伝わる舞踊を見て、車で家に帰る途中、反対車線のトラックが突っ込んできて、事故にあってしまう。おっこは無傷だったものの、両親は亡くなってしまう。その後おっこは、祖母の営む旅館「春の屋」に移り住むも、突然幽霊のウリ坊が現れ、若おかみとして、働き始めることになる。そんなおっこの前には、様々な事情を抱えた客や、他の幽霊たちも訪れ…。
導入こそ衝撃的ですが、その後の流れは割とシンプルという印象ですね。
<作画による絵力、いや画力>
この映画の魅力として、まずはアニメーションならではの表現、
つまり作画の良さがあります。
それは映画の冒頭で、観客に大胆にも突き付けられます。
トラックとの事故のシーンです。
このシーンでは、
まず反対車線でなにか煙が上がる→トラックが突っ込んでくる
という構成が取られています。
これによりトラックが飛び出てくる瞬間の驚きが強調されていると共に、
その動きの迫力、恐ろしさも一気に強調されます。
多くの観客が子ども向け映画だしなー…と思っているところの、
度肝を抜いてやろうという強さがあります。
僕自身、このシーンでは声を漏らし、鳥肌を立ててしまいました。
ですがそんな荒々しい表現だけではなく、細やかな表現もなされています。
例えば食べ物。この作品では、多くの食べ物が出てきます。
お酒、ステーキ、焼き魚、プリン…などなど。
これらすべてがとても美味しそうに描かれています。
また、季節の変わり目も自然を利用して効果的に表現しています。
こいのぼりが一面に広がれば、夏の始まり。
いつもの道に枯れ葉が落ち始めれば、秋。
という風に、わざわざ説明を出すことなく、
背景などの中に季節を落とし込むことで、自然に季節を感じさせてくれます。
季節や食べ物などの作画は、決して精巧な実写寄りの絵ではありません。
むしろそれよりも、その動きや質感が生き生きとしており、
一枚の絵というよりも、やはりアニメーションとして動きを伴うことで、
世界観の厚みを持たせるのに大きな役割を果たしているものだと思います。
またそのように、一枚絵よりも動画を意識した作画は、
子ども向けのポップなキャラクターたちととてもマッチしており、
この作品の明るさをより強くしています。
このように、
一枚の絵としての絵力よりも、キャラクターや動きも含めた画力が魅力的な作品
となっています。
<繊細な演出>
そんな画力を用いた演出は、驚くほどに繊細なものになっています。
主人公のおっこが、客と共に車でショッピングに向かうシーンが特に顕著です。
そのシーンでおっこは、対向車線のトラックを見て、事故の記憶を思い出し、
発作を起こしてしまいます。
この発作の表現が、とても細かい演出で表現されています。
まずは主人公の苦しそうな顔。そして事故のフラッシュバック。
さらにそこから音声がぼやけ始めます。
この発作とただの体調不良を比較していいのかはわかりませんが、
自分が体調不良に陥った時に、耳の中がぼーっとして、
周りの声が聞こえなくなることはありませんか?
その感覚をこの映画では表現しているのです。
実際に様子のおかしいおっこに、一緒に車に乗っていた客が話しかけるものの、
その声はぼやけてしまってほとんど聞こえていません。
車を脇に停めてもらって、外に出ることでやっとその症状が緩和します。
この一連の発作をただ絵で見せるだけではなく、音声もうまく使うことで、
観客にも体験をさせているわけですね。
また、映画内でたびたび挿入される両親の存在にも演出の良さが光ります。
おっこは定期的に、父と母の夢のようなものを見ます。
それは布団にもぐった後に、顔を出すと父が横にいたり、
旅館で作ったプリンを両親に食べてもらったりします。
つまり時系列がぐちゃぐちゃになっているんですね。
両親が死んだあとの話の中に、
夢というほどの明確な境界線が提示されないまま、
死んだはずの両親の姿が現れるのです。
この夢と現実の曖昧さによって、
おっこの、実は両親は生きているんじゃないか?
という淡い期待を観客にも体験させています。
観客に体験ということでいうならば、幽霊であるウリ坊と美陽の演出も当てはまります。
この二人は、映画が進むにつれて、成仏が近くなっていきます。
そうするとおっこにも認識できる時間が減ってしまい、
ウリ坊が急に見えなくなったり、美陽の声が何日間か聞こえなくなったりします。
この状態は、実際に画面から二人が消えるということで、
観客にも共有されています。
おっことウリ坊と美陽の三人を描いたうえで、
二人の声がおっこに届かないというシーンもありましたが、
後半のほとんどのシーンでは、ウリ坊と美陽は画面自体からいなくなってしまいます。
このような演出によって、ウリ坊と美陽がいなくなったことに慣れていく感覚や、
逆に現れたときに驚いてしまうという感覚を観客も体験できます。
以上のように、物語の暗い部分やいシリアスな部分の演出も素晴らしいですが、
もちろん明るい部分の演出も振り切っています。
例えば、先ほどの発作に襲われたあとのショッピングでは、
明るい曲に乗せながら、まるでMVのように、
おっこのファッションショーが行われたりします。
料理シーンでも、おっこがプリンを作る際には、
ボールをかき混ぜる工程と温泉が渦巻くイメージが重ねられたりしています。
このように、物語の明暗のどちらにおいても、
そのシーンが映画全体にとって、
どのような役割を果たすべきかということが明確になっていて、
それに沿った演出が細やかに行われているのです。
<緻密な物語の構成>
最後の魅力として、僕はこの作品の物語、構成を挙げたいと思います。
この映画の構成は、とても丁寧で密度が高いです。
まずベースとして、子ども向け作品としての明るい生活があります。
それはおっこの若おかみ修業や、学校での同級生とのやりとりが中心となっています。
特に真月は、作中でも「ピンふり」と呼ばれるほどピンクでふりふりの服を着ていたりと、
シーンの方向性をぐっと明るくするキャラクターになっています。
子ども向けを意識しただけあって、わかりやすく、明るい部分が、
キャラクターからも強調されているわけです。
そのキャラクターたちが教室で「ピンふり」と言った言わないでひと悶着起きる様子などは、
とてもライトな印象を与えてくれます。
ですがそのような明るいベースの中に、たびたびシリアスなシーンが挿入されて行きます。
それは特に旅館でのシーンとして現れます。
旅館で若おかみとして働くことになったおっこは作品中で三組の客を相手にします。
その中で各組に対して一つずつ、おっこが乗り越えるべき課題が提示されていくのです。
一つ目は、親を亡くした喪失感。
一組目の客として、最近母親を亡くした父と子が訪れます。
特に喪失感に暮れている子どもにおっこは、自分も気持ちがわかるとして、
手を差し伸べます。
否応なしに、自分の境遇を見つめなおす機会になるわけですね。
次に、事故の記憶。
先ほど述べた、ドライブ中のトラックによる発作です。
事故の記憶が自分の中にこれでもかというほど強く残っていることが、
身体的におっこに遅いかかるわけです。
そして最後に、加害者との関係。
なんと、三組目の客は、
おっこの親を殺した張本人である、事故トラックの運転手一家でした。
もちろん向こう側にも事情はありましたが、
だからといって両親を奪われた感情を抑えることは難しいです。
ですが、そんな客すらもおっこは「事故の被害者」ではなく「若おかみ」として受け入れます。
これだけを見ると、いやさすがに作品として無理があるんじゃ…と感じる方もいるでしょう。
ですが、これらの流れを支える軸として、温泉がモチーフとして繰り返し出てきます。
ここでいう温泉は、ただの湯舟を指すのではありません。
映画の冒頭から、
ここの温泉はどんな人でも拒まず、受け入れる
という文言が繰り返されます。
この温泉というモチーフが「受容」という形となり、この物語を貫く軸になっているわけです。
これにより癖や事情がある人物たちも含め、すべての登場人物を受け入れる動機付けが
おっこに与えられるのです。
そして受け入れた人物たちとの葛藤や触れ合いを通して、
おっこは事故から立ち直っていきます。
その集大成として、映画の最後は冒頭との対比により素晴らしいものになっています。
映画の最後には、冒頭でおっこが両親と見ていた舞踊を踊ります。
この部分では、冒頭との対比が意識的に強調されています。
おっこが見る側から演じる側へと変化したのはもちろんですが、
その隣にはかつて(冒頭)ではいなかった、真月とウリ坊と美陽がいます。
さらに、冒頭の両親の影と重ねられた見物客の中には、旅館で出会った客たちがいます。
この舞踊のシーンだけで、
おっこが冒頭から失ったもの、逆にそれ以降に手に入れたもの
がわかるようになっているのです。
加えて、幽霊であるウリ坊と美陽が舞踊と共に成仏するのですが、
その演出も、ウリ坊の思い出の場所である花畑の演出と重ねられることで、
物語においても絵力においても厚みを増しているものとなっています。
このように全体として、少しずつではありますが、着実におっこの成長を描き、
その集大成としてのエンディングにて、反復と差異を効果的に用いて、
おっこの変化を描いているのです。
<気になる点>
ただもちろん気になる点もあります。
それは、おっこの人生がハードすぎるということです。
もっと言えば、
ハードな人生に対して、おっこがそれを受け入れるのが早すぎる、
とも言えます。
先ほども述べたように、おっこは最終的に親を死に至らしめた人物と対峙します。
ですが、その葛藤を乗り越えさせたのは、私は「若おかみ」だから、という理由でした。
しかし、そもそもおっこは若おかみをウリ坊のお願いでしぶしぶ始めていますし、
そもそもいくら若おかみといっても、両親の仇ともいえる人物を許せるかは別でしょう。
その葛藤もあまりなく、「若おかみ」という理由だけですべてを受け入れられるのは、
おっこの精神年齢がめちゃめちゃ高いわけではないならば、
周りの大人がそうさせている=「若おかみ」をおっこに押し付けている
と感じてもおかしくはありません。
もちろん見た人の感じ方次第なのですが、
「若おかみ」という労働(者)賛美すぎやしないか?
という感じで僕は少し違和感を感じました。
ここに関しては、実際に見てみて考えてもらえればなぁと思います。
<終わりに>
というわけで今回は、『若おかみは小学生!』(2018)の感想をまとめてみました。
ここまで述べてきたように、とても完成度が高く緻密な作品でした。
子ども向け作品というのは、世の中にたくさんあります。
それは映画以外にも、本でも、音楽でも、テレビでも、
どんなエンターテイメントにも存在します。
その中で大事なのは「所詮、子ども向けだから」と馬鹿にしないことです。
子ども向け=手抜きではありません。
子どもたちをターゲットにして、彼ら彼女らにどう刺さるかを、
真剣に考え抜かれた結果できたものなのです。
なので、「子ども向け」という偏見は横に置いたまま、
いろんな作品を手に取ってみてください。
その中にはきっと、「子ども向け」というベールに包まれた傑作があります。
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