生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

「正義」は「正義」のままでは届かない

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「○○をしてはいけません」

世の中に溢れる定型句だ。僕たちは小さい頃から、この言葉たちと共に生きてきた。自分がされて嫌なことを人にしてはいけません、食べ残しをしてはいけません、遅刻をしてはいけません。世の中のあらゆることに対して、この定型句は利用されている。でも、この言葉の無力感が、どうも最近の僕には感じられる。

「○○をしてはいけません」では、無くならない

人殺しをしてはいけません。飲酒運転をしてはいけません。ここにゴミを捨ててはいけません。全て日本に住む多くの人が認知しているものだ。でも、これらが日本から消え去ったことはない。毎日のように、事件や事故は起きるし、地域でのトラブルも絶えない。みんながみんなわかっていることなんだけれど、「〇〇をしてはいけません」で「〇〇」が消え去ることはない。

特に最近だと、SNSでのそれが目立つ。「〇〇してはいけません」というよりかは、「〇〇」を取り上げて、それがどれだけひどいことなのかをつらつらと述べるという感じだ。そういう意味で言えば、この文章すらも、「〇〇してはいけません」という対象を取り上げて批判しているわけだから、同じようなものだと思う。うぅむ、難しい。

「〇〇」がどれだけひどいことか、それに声を上げることは僕自身は大賛成だ。これってめっちゃ大きくいうと、デモとかに繋がるのかもしれない。例えば「戦争はやめよう!」と叫ぶデモに対して、それで戦争が無くなることはないのだから無意味だ、という人もいるけれど、僕は個々人が「戦争はやめよう!」と思っているのなら、それを声にすること自体に、なんの是非も許可もいらないと思う(こうなると暴言までOKか?となるのだが、その議論はまた長くなるので今回は置いておく)。

ただ僕が気になるのは、なんのために「デモ」、つまり声を上げているかだ。自分が気に入らないことに対して、声を上げることが目的ならそれはそれでいい。ただし、世の中や社会の仕組みから、その対象を取り除いたり、改善しようとしているのならば、それでは足りないのではないか?と思う。

「〇〇をしてはいけません」で、「〇〇」が無くなることはない。もちろんこれまでの歴史を見たらそういう事例もあるかもしれないけれど、ほとんどの「〇〇」は生き残っていると思う。もし世の中から消えた、もしくは消えかけている「〇〇」があるのならば、それはきっと、「正義」が「正義」でなくなったからなんじゃないかと思う。

「○○をしてはいけません」という「正義」

「○○をしてはいけません」という考え方は、多分圧倒的に正しい。こういう形で論じられるものって、大多数の人に害を与えうるものだと思うから(さっき言った殺人とか、飲酒運転とか)。そういう意味で、これは「正義」とも言える。社会に生きる上で、多くの人が守り、尊重するものだ。でもこれは時として、役に立たない。

「正義」を振りかざされることは、時としてうっとしいからだ。「正論」と言い換えてもいいかもしれない。世の中にはたくさんの「正論」が溢れている。でもその全てを僕たちはできているだろうか?答えは多分Noだ。守れているものもあれば、守れていないものもある。いつもは守っているのに、ときには守れないものもあるだろう。

なぜ「正義」や「正論」を実行しないかと聞かれれば、たぶん僕たちは論破される。だって圧倒的に向こうが「正しい」のだから。だけれど、「正しい」だけで動くほど、人はできていない。「正しい」けどできないこと、やれないことは世の中にごまんとあるのだ。

それなのに、「正論」だけをひたすら振りかざすだけで、何かを変えられると信じている人もいる。僕はそういう人たちに言いたい、「多分あなたたちが思っているより人間は愚かで、怠け者だ」と。その人たちの活動や声が無駄と言いたいわけじゃない。ただその声が届かない、もしくは届いても意味のない人間は、世の中にめちゃくちゃいるのだということ。そういう人たちを変えることができるのは、きっと「正義」や「正論」ではない何かだということ。

「正義」に代わる何か

ではその何かとはなんなのか。多分社会において、この答えはまだ見つかっていない。でも僕個人としては、小さな答えを持っている。それは「文化」だ。「カルチャー」と言った方が感覚として近いかもしれない。例えば政治家が投票に行こうと言うのと、ジャニーズが投票に行こうと言うのでは、多分動く人間の層が違う。と言うか多分投票に行くという結果は同じだけど、それまでの過程やプロセスが全く異なると思う。

「政治に参加しなければ」という動機が前者だとすれば、後者はジャニーズが、もっと言えば「推しが行こうって言ったから」ということになるだろう。もちろんこれはあくまで一例だし、実際にこうなるかとはまた別の話だ。要するに、自分の関心のある「文化」や「カルチャー」の範囲に、「正義」や「正論」が形を変えて溶け込んでいるということだ。

別にジャニーズでなくとも、漫画やアニメ、映画、音楽、コスプレ、その他もろもろなんでもいい。大切なのは、それらに「正義」や「正論」が如何に溶けられるかだ。行政が何かのコンテンツとコラボして、市民にアピールすることはあるが、あれは行政がやっているという「正義」の形のままで、コンテンツに溶けていない。もちろん無意味とは言わないが、ファンとしても、いつものコンテンツと同様に接することはできないと思う。

そうではなく、その「文化」や「カルチャー」の中にあるものと、「正義」が繋がることがあると、人は動いたり、姿勢を変えたりすることがあるんじゃないだろうか。アメリカの歌手、ビリー・アイリッシュなんかも、そんな感じな気がする。彼女という「カルチャー」に触れている人たちには、行政から言わされた言葉ではなく、彼女自身から出た言葉で、初めて政治に参加しようとした人もいると思う。

「他人ごと」から「自分ごと」へ

大切なのは、「正義」が「正義」のままでは「他人ごと」として捉えられてしまうこと。「正義」が「正義」の形を無くして、自分の周りに「自分ごと」として現れるようになって初めて、動く人たちも大勢いるということ(もちろん僕も)。「正義」を「正義」として振りかざしている人たちには、そういう人たちもいることを覚えておいて欲しい。

そして同時に、SNSをはじめとする、いろんな場所で発言ができるようになった僕たち自身も、自分が声を上げるときに、ふと立ち止まって考える必要があるのだろう。僕らが振りかざす「正義」がどんな形をしているかということを。