生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

駄文:色んなめんどくささ

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以前に書いた記事、映画『花束みたいな恋をした』の感想がそれなりに読まれているようで、ありがたいです。

becinema.hatenablog.jp

ただ同時に、この映画を巡って、映画レビューに関するめんどくささみたいなものを久々に味わったので、今回はそんな話をしていこうと思います。

今回は、圧倒的に駄文です。ごめんなさい。

映画感想のズレ

そもそも僕はここ数年、一人で映画を見に行きます。元々は友達といくことも多かったのですが、途中からやめてしまいました。理由としては、感想のすり合わせがめんどくさいからです。というか客観的に見れば、僕の映画の見方がちょっと穿っている(?)ので、僕の感想を共有することが疲れる、という方が近いかもしれないです。

僕は大学院で映画の研究をしていました。何それ?とかどんなことしてたの?ということに答えると長くなるので、ここでは割愛しますが、要するに映画の見方に関しては、ちょっとだけ知識を持っているって感じです。そうすると、映画を友達と見たときに、結構感想が「ズレる」ことがあります。

「異なる」のではなく「ズレる」のです。感想が異なるのは、当たり前でしょう。むしろ同一の感想しか出てこない作品というのも、おかしな話ですし。ただ僕の場合は、同じシーンを見ていても、見ている部分が友達と「ズレる」のです。

「映画」として観る

「ズレ」なんて格好いい言い方をしていますが、なんてことはないカメラワークや構成に着目して見ているだけです。『花束みたいな恋をした』の感想でも書きましたが、映画全体を通しての「差異」と「反復」だったり、もしくはショットの大きさだったり(引きで撮ってるか、みたいな)。要するに映画だからこそ見られる部分に着目して観てることが多いわけです。

ただ僕の周りの友人や、ネットに溢れている多くの感想は、あまりそのような部分を捉えているものは少ないんじゃないかと感じます。正確にいうと、一定の割合ではいますが、それらはマジョリティではないと思います。僕の偏見ですが、多くの人がTwitterに書いたり、友達と喋ってる映画の感想というのは、脚本に関するものが多いと思います。

特定のシーンの話をしたりするときに、あのカメラワークが良かったとか、あのライティングすごいね、なんていう話をするよりも、あのセリフが良かった、あの展開ねー、という風に話している気がします(何度でも言いますが僕の完全な偏見です)。別にその感想が良い悪いというわけではないです。ただその感想は、映画の映画たる部分をあまり観ていないのではないか、とも思ったりするわけで。

セリフや展開、脚本だけを話すようであれば、それは小説の感想と変わらないのではないでしょうか。もちろん小説には小説の良さがあるように、映画には映画の良さがあります。どうせ映画を観るのなら、映画としての良さを話したいなと、僕は思うわけです。

解釈の多様性

さらに加えて言いたいことは、解釈の多様性、ということです。僕の周りの人は、映画にの解釈に迷ったら、監督や製作陣がどういう意図で作ったかを調べたりします。でも僕は映画やその他の芸術には、もっと観客や受け取り手の解釈の幅があると思います。

もちろんデタラメなものではいけないですが、作品全体を鑑賞することを前提に、ちゃんとした背景や文脈があるのならば、自分なりの解釈ができると思っています。例え製作陣が狙っていないことでも、受け取り手によっては、そのように捉えてしまうこともある。そう考えた方が、芸術の自由度は増すし、面白いんじゃないかと思っています。

故に解釈はぶつかります。というかそもそも一つの作品に単一の解釈を当てはめようとすること自体が無理なことだし、意味のないことだとも感じます。一つの作品には多様な側面があり、それらをどう観るかによって多様な解釈が生まれるわけですから。

それなのに自らの解釈を他人に与えようとする人はいますよね。どれも正解ではないのに、さも正解かのように振る舞って。そしてその解釈に対して、また議論や感想が生まれる。これも映画や芸術の良さです。ただ、このネット社会において、それがあまりにも大きくなりすぎている気もします。

『花束みたいな恋をした』に疲れた

話がとっちらかってしまいましたが、要するに『花束みたいな恋をした』は、まさにこの解釈の多様性を生み出しやすい作品になっていると感じました。主人公の二人というフィルターを通して、各々の人生を重ねやすくなっているからです。その結果、無数の解釈が生まれ、溢れ、氾濫しています。それは僕の周りにも当てはまりました。

改めていうと、僕は各々の解釈を持つことは賛成ですし、多いにして欲しいと思います。ただそれらを擦り合わせようとする作業や過程がとても苦手です。それは先にも書いたように、どの解釈も単一の正解はないからです。答えのないものに対して行われるのは、延々の議論ととりあえずの決着点の提示だと思います。そしてこの作業はとても労力を使います。

なので僕はそんなことをするなら、こうやって文章に自分の解釈をまとめて置いておいた方がよっぽどいいと思っています。公開していることで、議論につながるという矛盾は抱えていますが、僕の記事はあくまで読まれることをそこまで前提としていない、自分の頭を整理するメモだ、という言い訳で逃げさせてください(笑)

『花束みたいな恋をした』に関しては、僕は久しぶりに友達と感想を言い合ったのですが、めちゃめちゃ疲れました。あのシーンがこうだ、あのセリフがさ…と、延々と終わらない議論をしていました。さらに良くなかったのが、ネット上の感想の共有をしてしまったことでした。しかもこれは僕から仕掛けてしまいました。

もうそこからは感想の共有の感想を共有するという、無限の議論でした。あぁ、この感じ苦手だったなぁ…と久々にあのつらさ、めんどくささを味わいました。何が一番めんどくさいって、次の映画に頭や気持ちが向きにくくなるんですよね。一本に対してかける時間が長くなるので、次の映画に向かうまでに時間がかかってしまうわけです。

しかもこの一連の流れで思い出したのは、自分のめんどくささでした。僕の場合、考えとしてはいろんな解釈があっていいというものですが、自分の感想は否定されたくない、むしろ同調してほしいという気持ちは持っているのです。そんな矛盾が自分でも嫌で、人との感想の共有ではなく、自分で文章を書き始めたはずなのに、完全に忘れていましたね。「自らの解釈を他人に与えようとする人」というのは、僕自身のことでした。

こんな感じで、『花束みたいな恋をした』は良くも悪くも僕の中に残る一本となってしまいました。

最後に

映画をはじめとする、様々な感想は取り扱いが難しいです。それはきっと他の芸術や、コト、モノについても同様だと思います。そんな中で無理をしない範囲で、それぞれの楽しみ方ができるといいなと思いました。