生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

僕は僕を許しすぎでしょうか?

孤独 画像

最近、自分の中の許容値が下がっている気がする。知り合いにお勧めした音楽が不評だととてもムッとするし、誰かが怒っていることに対して、無関心でいようとしてしまう。これは僕が幸せに生きるために選んだことなのだけれど、いつからかそれが原因で苦しいと感じるようになってしまった。

 

遠いところでお互い幸せになりましょう

Twitterか何かで見かけた考え方。自分とどうしても合わない人は存在していて、そんな人とは距離を取ろうというもの。それは決してその人が「悪い」というわけではなく、互いの価値観が合わないから、お互いに距離をとって、各々で勝手に幸せになろうね、というお話だった。

当時Twitterでのやりとりを覗きにいくことが習慣化していた僕には、この考え方はとても救いのように思えた。やりとりを覗きにいくのはいいものの、結果として大体気分が落ち込んだりモヤモヤすることが多かったからだ。だったらそもそも覗きにいかなければいいのだけど、当時大学院生だった僕からすると、それらは見かけたら見逃すことはできないものだった。

それでもあまりにも自分が苦しかったので、何とかその習慣を止めようとした。そんな時に僕の後押しをしてくれたのがこの考えだった。「そうか、僕が見て苦しくなるような人たちは、僕の知らないところで幸せになることを願えばいいのか」という、解のようなものを得た気がした。それ以降少しずつであるが、Twitterの使い方を改め、健やかな精神衛生で過ごすことができる時間が多くなった。

少しずつ遠のく

少し経ってからだろうか。僕は自分自身の違和感に気づいた。それは他人の映画レビューを聞くとモヤモヤするということだった。自分が気に入った映画の感想をネットで探して、ネガティブなレビューがあるとモヤモヤしていた。もちろんこれ自体は誰にでもあることなのかもしれないが、それが数日〜1週間ほど続くような感じだった。

本来であれば、これはきっと映画レビューの醍醐味のはずだ。自分と異なる意見を見ることで、作品に対して考える様々な視点を得ることに繋がるだろう。でも僕の中ではそれ以上に、モヤモヤが大きくなっていた。こんなことなら映画を見る前の方が気持ちは楽だったとさえ感じるほどに。モヤモヤを感じた時、どうすればいいか。答えはすでに知っていた。僕は映画レビューを見ることを止めた。僕と違う感想を持つ人たちは、僕の知らないところでそれぞれの感想を持てばいいんだと思うようにした。

モヤモヤよ、バイバイ…?

音楽でも映画でも漫画でも。どんなものでも他人の感想や意見を、目や耳に入れないようになった。もっと言えばニュースもほとんどチェックしなくなった。世間の大体は芸能人か、政治家か、ウイルスに興味があるらしいが、どれを見ても僕の気分が上がることはほとんどなかったから。興味のない話題や、正解のないことについて、さも正解かのように一意見をかざすものばかりで、いちいち反応してしまうのが勿体ないと感じた。

僕の人生はとても穏やかになった。自分がモヤモヤを感じるものは大体遠くに置いた。それぞれをそれぞれの場所において、それぞれの幸せを願った。僕の心は僕の幸せをちゃんと噛み締められるようになった。よかった。これで僕の人生は、また少し楽しくなる。そう思った。でも残念なことに、あろうことかこの僕自身が、それを邪魔した。

僕だけは「トクベツ」!

ある日「この映画、微妙じゃない?」と友達にいうと「いや俺は好きだよ」と言われた。普通なら「そっか」で終わる話だ。でも僕は気づいたら「でも、こういう部分の作りが良くないんじゃない?」と言っていた。

僕は自分の意見を他人に強いるようになった。

昔からその傾向はあった。嫌いな映画は嫌いと言うし、好きな音楽は好きと言った。でも昔よりその引き際が悪くなった気がする。自分の意見を汲んでくれない人には、汲んでくれるまで説得を行うようになった。それでも説得されない人、そもそも相手にされない人には、そもそもその手の話をしないようにすらなった。

僕は僕の意見だけを「トクベツ」だと思うようになった。僕の意見は間違いない、根拠がある、論理的だ、正しい。そんな大前提が僕の足元にデカデカとそびえ立つようになっていた。かつてあれだけ嫌いだった、他人に意見を押し付ける人に、僕自身がなっていた。

そんな僕の「トクベツ」を受け入れない人には、心がモヤモヤした。「そんなこと言わなくていいのに…」と、ちゃんと悲しくなった。モヤモヤを遠のけ続けた結果、自分自身がモヤモヤを生み出すようになってしまった。

モヤモヤ×距離=「」

モヤモヤから距離を置き続けた僕には大きな問題が起こった。「考える」ことをしなくなったのだ。モヤモヤは意見が食い違うことで起きる。でも本来なら、その違う意見をすり合わせたり、互いに納得したりする必要がある、というかできた方がいい。そのために色々考えて、話し合って整理することが必要だ。でも僕はそれを徹底的に避け続けた。考えることは疲れるし、心が痛む気がしたから。だから僕はモヤモヤをあっちに追いやり続けた。「幸せを願う」という偽善的な言い訳を建前にして。そうして出来上がったのは、自分という「トクベツ」だけを許し続ける小さな人間だった。

道を変えよう

この文章は、昨日知り合いにとある音楽をお勧めしたことがきっかけだった。とても良いと感じて、意気揚々にシェアしたところ「なんてことない平凡な曲じゃん」と返ってきた。僕にとってはもちろんそうではないのだけれど、それはそれなので「そっか」で終わればよかった。でも僕は「そっか」とも言えず、モヤモヤを抱え、挙げ句の果てに文章にすることで解消しようとしている。こういうことが続く人生って、あんまり楽しそうじゃないなと思った。

だから少しずつだけど、道をずらして行こうと思う。少しずつモヤモヤと向き合って、考える機会や時間を増やすようにしよう。いろんな人のいろんな意見がある道の方が、きっと僕をどこかで救ってくれる気がするから。難しいし、大変だけど、心を閉ざしてはいけないものが人生には何個かあるらしいと、モヤモヤを抱きながら感じた。