生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

僕が『花束みたいな恋をした』にハマらなかったワケ

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※この投稿は映画のネタバレありの超個人的感想です。気分を害されそうな方は、読まないことをお勧めします。 

 

久しぶりの投稿が、映画の感想になるなんて、思ってもみなかったですね。

というわけで見てきました、『花束みたいな恋をした』。

hana-koi.jp

僕の周りでも見た人は、心を良くも悪くも動かされていて、僕もこれは多分見なきゃいけないんだろうなぁと思って見にいきました。

どんな作品かは公式サイトを見て貰えばいいと思うのですが、男女二人が出会ってから別れるまでを描いた物語です。別れるってことは物語の冒頭から示されるので、どう別れることになるのか、っていう過程を見せる感じですね。

この中で、かつて自分がした恋愛に二人を重ねて、心が動かされる観客が多いというわけだと思います。僕も過去の恋愛を結構引っ張るタイプなので、絶対刺さるやつぅ…と思って見にいきました。

ただ結論から書くと、そこまで刺さりませんでした。

 演技と演出

この映画、基本は主人公である有村架純菅田将暉の演技で構成されています。この二人の演技はめちゃよかったです。組み合わせ的に『何者』っていう映画を彷彿させる瞬間もありましたが、ちゃんと同棲してるカップル、それもうまくいっていない二人が演じられていました。

という感じなので、僕が刺さらなかった理由は演技ではなく、映画の演出でした。この映画の演出で頻繁に行われるのが、「反復」と「差異」です。簡単にいうと、似たようなシーンをちょっと変化させて後から見せるってやつです。

この演出、この映画で多用されます。例えば、二人で同棲を始めた時に、二人でベランダで語らうシーンがあります。これを、二人が別れそうなタイミングで、同じベランダで、同じアングルで再現します。こうすることで、二人の関係性の変化が目立って、別れが近づいていることを観客に感じさせられるってわけです。

ただラストシーンでの演出が個人的にはくどかった。

ファミレスでの山場

二人が別れ話を切り出すシーンがこの映画の山場となっています。それは、かつて告白が行われたファミレスを舞台に始まります。ただし、以前と同じ席は空いておらず、別の席に座りながらですが。

ファミレスに入るまでの1日を共にしていた二人は、今日は楽しかったことを伝え、今まで一緒にいた時の写真を二人で見返したりします。

ここね、僕個人的にすごいグッときました。観客でもわかるんですけど、この後二人は絶対別れ話をするんですよ。さらに言えば、別れなきゃどうしようもない状況だってことも観客は知っている。「別れるという正解」が完全に導き出されているシーンなんです。

でも今までの写真とか思い出を振り返っていると、楽しかった時の感情とか、思い出が一気に蘇ってきます。それで思うわけですよ。「なんでこんなに楽しかったのに、別れなきゃいけないんだっけ?」って。そこで菅田将暉が演じる山音が言うんです。

「俺、別れたくない」

うわぁぁぁああああああ!!ここが僕のピークでした。完全に虜です。めちゃめちゃ個人的な話ですが、僕自身のこれまでの恋愛って、基本的に振られる側だったんです。で、振られる時に思うのが、「今までめっちゃ楽しかったじゃん…?」なんですよ。確かに相手には別れるほどの理由があるんですけど、めっちゃエゴイスティックに「なんで楽しいのに別れようとするんだよ?」って思うんですよ。それで、なんとか続けられないかと、もがき始めるわけなんです。

山音のもがきは「プロポーズ」でした。恋愛としてはうまくいかなくても、生活を共にする家族ならうまくいくかもしれない。そう思って、有村架純が演じる八谷に結婚を申込わけです。最初はただのわがままで傲慢なアイデアのように思いますが、少しずつ八谷も納得しかけます。

その理由が個人的な僕の考えに結構近くて驚きました。要するに、世の中で結婚している人たちって、恋愛とかじゃなくて、生活を回していく協力者じゃないかと。恋愛でなく、空気のような存在になって、互いの不満などを乗り越えながら生活していけばいいじゃないかと。

この考えは僕も結構賛同しています。大前提として、恋愛としての関係を保ったまま結婚して生活をしている方々もいらっしゃると思います。ただ全ての結婚関係にある人がそうかと言うと、僕はそうではないと思います。やっぱり妥協で結婚し続けている人たちも一定数いると思うからです。

そんな話をされるうちに、八谷も「結婚ならアリかもしれない」と考え始めます。ただ間違いなく、そこに恋愛感情はない。そういう関係としての、妥協としての結婚生活を受け入れるか否かという話です。

ここまでは、僕自身の恋愛経験も重なったのもありますが、すごくよかったです。なんとか二人の関係を保てないかともがく山音と、説得されかける八谷。ただ一番の問題はこの後。この話の終着点への向かい方でした。

「反復」と「差異」の往復ビンタ

八谷が山音の提案に乗ろうかとしたとき、二人がかつて告白した席に、若い男女二人組が着席します。大学生ぐらいに見えた二人は、席を譲り合い、二人の好きなアーティストなんかの話を始めます。そして靴はお揃いの白のジャックパーセル

そうなんです。この二人のやりとり、かつての山音と八谷がしていたものの「反復」なんです。全く同じ席、全く同じ話(アーティストなどは最新版ですが)、全く同じ靴、唯一異なる、「差異」は、その席に座っている二人です。これでもかと言うほどに、「反復」と「差異」の大量投入でした。その大量投入を、山音と八谷は目の前で見せられるわけです。

これが、ここだけが、個人的には余分でした。確かに、妥協の結婚に流れそうになった二人を食い止める「何か」が必要になります。ただそこで、露骨にその「何か」を映画として提示してくるわけですよ。

「ほら、そんな結婚しちゃっていいの?」と言わんばかりに観客と山音と八谷を煽ってくるわけです。まるで道案内をしてくれるような、言うなれば感情のガイドラインですよ。

「そんなもの見せるな!」と僕は思ってしまいました。なぜなら最初に言ったように、菅田将暉有村架純の演技は素晴らしかったからです。そして若い二人が現れるまでにも、山音と八谷のこれまでの関係性の振り返りは十分にできていたからです。スマホで写真見ながら、気づいたら泣いてしまう。二人のこれまでを振り返るのは、それだけで十分ではないか、と僕は感じてしまいした。

その結果、この映画のラストシーンの山場にも関わらず、僕は苦笑いしてこのシーンを見ることになってしまいました。そしてそれは、この映画全体の印象として、「ハマらなかったな…」と思わせるものでもありました。

ただ、別れが決まってから別居するまでの生活は素晴らしかったです。別れた方が、良い関係性になれた、と言う皮肉的な展開になっています。もちろん言い分ばかりを切り取って見せているので、そういう風に見られるってだけなんでしょうけどね。

最後に

というわけで『花束みたいな恋をした』の個人的な感想でした。一番刺さるであろう部分に刺さらなかったこの映画は、なんというか惜しいという感じでした。映画のセリフを引用するならば「ここまでの過程は美しかった。しかしあと一歩届かなかった。」でしょうか。

僕としてはこの映画を通して、自分の過去の恋愛を振り返るいいきっかけになったと思います。彼女目線から見た男性の振る舞い=かつての僕のエゴイスティックさが、嫌と言うほどわかりました。またここから、いい恋愛できるように頑張っていきます。

有村架純菅田将暉の演技は素晴らしいので、ぜひご覧になってない方はご覧になってください。

「正義」は「正義」のままでは届かない

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「○○をしてはいけません」

世の中に溢れる定型句だ。僕たちは小さい頃から、この言葉たちと共に生きてきた。自分がされて嫌なことを人にしてはいけません、食べ残しをしてはいけません、遅刻をしてはいけません。世の中のあらゆることに対して、この定型句は利用されている。でも、この言葉の無力感が、どうも最近の僕には感じられる。

「○○をしてはいけません」では、無くならない

人殺しをしてはいけません。飲酒運転をしてはいけません。ここにゴミを捨ててはいけません。全て日本に住む多くの人が認知しているものだ。でも、これらが日本から消え去ったことはない。毎日のように、事件や事故は起きるし、地域でのトラブルも絶えない。みんながみんなわかっていることなんだけれど、「〇〇をしてはいけません」で「〇〇」が消え去ることはない。

特に最近だと、SNSでのそれが目立つ。「〇〇してはいけません」というよりかは、「〇〇」を取り上げて、それがどれだけひどいことなのかをつらつらと述べるという感じだ。そういう意味で言えば、この文章すらも、「〇〇してはいけません」という対象を取り上げて批判しているわけだから、同じようなものだと思う。うぅむ、難しい。

「〇〇」がどれだけひどいことか、それに声を上げることは僕自身は大賛成だ。これってめっちゃ大きくいうと、デモとかに繋がるのかもしれない。例えば「戦争はやめよう!」と叫ぶデモに対して、それで戦争が無くなることはないのだから無意味だ、という人もいるけれど、僕は個々人が「戦争はやめよう!」と思っているのなら、それを声にすること自体に、なんの是非も許可もいらないと思う(こうなると暴言までOKか?となるのだが、その議論はまた長くなるので今回は置いておく)。

ただ僕が気になるのは、なんのために「デモ」、つまり声を上げているかだ。自分が気に入らないことに対して、声を上げることが目的ならそれはそれでいい。ただし、世の中や社会の仕組みから、その対象を取り除いたり、改善しようとしているのならば、それでは足りないのではないか?と思う。

「〇〇をしてはいけません」で、「〇〇」が無くなることはない。もちろんこれまでの歴史を見たらそういう事例もあるかもしれないけれど、ほとんどの「〇〇」は生き残っていると思う。もし世の中から消えた、もしくは消えかけている「〇〇」があるのならば、それはきっと、「正義」が「正義」でなくなったからなんじゃないかと思う。

「○○をしてはいけません」という「正義」

「○○をしてはいけません」という考え方は、多分圧倒的に正しい。こういう形で論じられるものって、大多数の人に害を与えうるものだと思うから(さっき言った殺人とか、飲酒運転とか)。そういう意味で、これは「正義」とも言える。社会に生きる上で、多くの人が守り、尊重するものだ。でもこれは時として、役に立たない。

「正義」を振りかざされることは、時としてうっとしいからだ。「正論」と言い換えてもいいかもしれない。世の中にはたくさんの「正論」が溢れている。でもその全てを僕たちはできているだろうか?答えは多分Noだ。守れているものもあれば、守れていないものもある。いつもは守っているのに、ときには守れないものもあるだろう。

なぜ「正義」や「正論」を実行しないかと聞かれれば、たぶん僕たちは論破される。だって圧倒的に向こうが「正しい」のだから。だけれど、「正しい」だけで動くほど、人はできていない。「正しい」けどできないこと、やれないことは世の中にごまんとあるのだ。

それなのに、「正論」だけをひたすら振りかざすだけで、何かを変えられると信じている人もいる。僕はそういう人たちに言いたい、「多分あなたたちが思っているより人間は愚かで、怠け者だ」と。その人たちの活動や声が無駄と言いたいわけじゃない。ただその声が届かない、もしくは届いても意味のない人間は、世の中にめちゃくちゃいるのだということ。そういう人たちを変えることができるのは、きっと「正義」や「正論」ではない何かだということ。

「正義」に代わる何か

ではその何かとはなんなのか。多分社会において、この答えはまだ見つかっていない。でも僕個人としては、小さな答えを持っている。それは「文化」だ。「カルチャー」と言った方が感覚として近いかもしれない。例えば政治家が投票に行こうと言うのと、ジャニーズが投票に行こうと言うのでは、多分動く人間の層が違う。と言うか多分投票に行くという結果は同じだけど、それまでの過程やプロセスが全く異なると思う。

「政治に参加しなければ」という動機が前者だとすれば、後者はジャニーズが、もっと言えば「推しが行こうって言ったから」ということになるだろう。もちろんこれはあくまで一例だし、実際にこうなるかとはまた別の話だ。要するに、自分の関心のある「文化」や「カルチャー」の範囲に、「正義」や「正論」が形を変えて溶け込んでいるということだ。

別にジャニーズでなくとも、漫画やアニメ、映画、音楽、コスプレ、その他もろもろなんでもいい。大切なのは、それらに「正義」や「正論」が如何に溶けられるかだ。行政が何かのコンテンツとコラボして、市民にアピールすることはあるが、あれは行政がやっているという「正義」の形のままで、コンテンツに溶けていない。もちろん無意味とは言わないが、ファンとしても、いつものコンテンツと同様に接することはできないと思う。

そうではなく、その「文化」や「カルチャー」の中にあるものと、「正義」が繋がることがあると、人は動いたり、姿勢を変えたりすることがあるんじゃないだろうか。アメリカの歌手、ビリー・アイリッシュなんかも、そんな感じな気がする。彼女という「カルチャー」に触れている人たちには、行政から言わされた言葉ではなく、彼女自身から出た言葉で、初めて政治に参加しようとした人もいると思う。

「他人ごと」から「自分ごと」へ

大切なのは、「正義」が「正義」のままでは「他人ごと」として捉えられてしまうこと。「正義」が「正義」の形を無くして、自分の周りに「自分ごと」として現れるようになって初めて、動く人たちも大勢いるということ(もちろん僕も)。「正義」を「正義」として振りかざしている人たちには、そういう人たちもいることを覚えておいて欲しい。

そして同時に、SNSをはじめとする、いろんな場所で発言ができるようになった僕たち自身も、自分が声を上げるときに、ふと立ち止まって考える必要があるのだろう。僕らが振りかざす「正義」がどんな形をしているかということを。

 

オンライン英会話を勢いで申し込んだ話

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やりたいこと

やりたいこと。そう言われて何個あげることができるだろう。そんなことを思ったのは、二十歳の誕生日を迎えたときだった。自分の人生の節目を迎えたというよくある理由から、自分の人生を見直してみた。何にもないかもなぁ。そんな風に思いながら、でもそれでは寂しい気がして、そこからやりたいことを増やしていった。

それから数年。今の僕はあの時の自分からは信じられないくらいやりたいことに溢れている。文章を書いたり、ラップをしたり、映像を作ったり、漫画を読んだり、ラジオを聞いたり、サウナに行ったり、美味しいもの食べたり。毎日仕事なんてしてる暇がないくらいに、やりたいことだらけだ。

とても嬉しい状況だけれど、ここでも少し問題があった。やりたいことだらけで、何から手をつけていいかわからなくなる。物事には優先順位というものがつけられるが、生憎僕はそれが苦手だ。もっといえば、優先順位はつけられるけれど、その優先順位の通りに行動することが難しい。絶対に今やらなければいけない、圧倒的優先順位1位のものがあったとて、その時の気分でやることを決めてしまう。(順位とはなんだったのだろうか…。)

気持ちとか気分とか

でもこのやり方って実は案外悪くないところもある。それは、自分がやりたくないとか、嫌だなって感じることに関してだ。やらなきゃいけないことの中に、自分があまり進んでやれないもの、やる気が起きないものって大抵みんなあると思う。(ない人はめちゃめちゃすごい人なので、マジでそれを誇っていい。)そんなものに優先順位をつけたところで、やるべきであろうとなかろうと、結局やりたくなくなってやらずに終わってしまうというオチもよくある。そこで登場するのがこの気分の話。

自分が嫌なことに対して悩んでいる時、急に吹っ切れる瞬間ってないだろうか?考えすぎたり悩みすぎたりした結果、「ええ〜い!もうどうにでもなれぃ!」みたいな感じ。でもこういうのって、ちょっと経つと冷静に戻ったりする。だから僕はその瞬間を逃さない。「どうにでもなれ!」と思った瞬間、行動に移している。何もそんなに大袈裟な話じゃない。勉強しなきゃとか、あの人に話さなきゃとか、予約しなきゃとか、そういう小さな小さな、でも自分からしたら大きなことだ。

オンライン英会話:お昼休み

一昨日もそれをした。今年の目標の一つに英語力の向上を挙げている僕は、オンライン英会話を年始から始める予定だった。そう、「だった」。一昨日は1/8。年が明けてから一週間以上も経っていた。始めなきゃな…でもまだ不安だしな…。そうこうしているうちに、仕事が始まり、2021年の一週目が終わりを迎えようとしていた。

昼休み。ご飯を食べながら、英語の勉強について考えていた。「でもまだ今年の英語勉強のスケジュール立ててないし、英会話は後からでもいっか?」とか考えていた僕の脳内に、突然衝動が走った。

「今、英会話を予約しろ!」

なぜかわからないけど、突然この声が僕の頭の中に鳴り響いた。そう、こういう突発的な瞬間の思いこそ、僕は大事にしている。この瞬間を逃すと、次はだいぶ先になることがわかっているから。そして今この声を聞かない理由なんて、実はどこにもないから。この瞬間を逃したら、何かが遠のいてしまう。そんな脅迫めいた思いに駆られて、僕は昼休み終了の3分前に、オンライン英会話の予約をした。

オンライン英会話:帰宅後

帰宅後。英会話の予約をしていた時間が迫る。久々の英会話。どうやって進めようか、何を話そうか、自己紹介ってどうやるんだっけ、解決するはずもない不安が僕の中を襲いまくる。もちろんその答えが見つかることはなく、レッスン開始の時間になった。講師が画面の向こうに現れる。とっさに僕は「ハァ〜イ」と、初心者丸出しの挨拶をした。

その後も英会話は続く。相手の質問が何言ってるかもよくわからないし、自分が何を言っているのか、そもそも何が言いたいのかもよくわからない。案の定出てくる英語は支離滅裂で、動詞が二個出てくるわ、時制が過去と未来を行ったりきたりだわ、いわゆる散々という結果だった。

めちゃめちゃ悔しかった。自分がこれまでにしてきた英語の勉強が全然足りていないことがわかったし、純粋に話せない恥ずかしさや、もどかしさもあった。25分のレッスンはそのまま終了。相手の人がめちゃめちゃ優しかったので、こっちのペースに合わせてもらえたけれど、とてもslowlyな会話だった。

でもやれた。25分間、相手に待ってもらいながらも、言語が異なる人とのコミュニケーションをし終えた。そう思った瞬間、どっと安心感が出てきた。達成感を感じるようなことは何もしていないのに、何かを終えたような感覚になった。まだまだなとこはあるけど、ガンバロ。なぜかそう思えた。やって良かったと、心の底から思えたのだ。この前を向いた自分の気持ちは、お昼休みにした勢い任せの予約から産まれたものだった。パサパサになった口で飲む水は、死ぬほどうまかった。

最後に

何かに取り組む時。いろいろな方法があると思う。世の中にはそれを論理的に、科学的に研究したものや提言しているものもたくさんある。でも残念ながら、自分の気持ちがそれに追いつくかは別だ。だからこそ、たまには気持ちに正直になって、何かに取り組んじゃうのもアリだと思う。もちろん失敗もあるけれど、自分でもびっくりするようなものが手に入ることがあるかもしれないから。