生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

僕の新年度はおじいちゃんに侵されてしまった。

おじいちゃんのLEGO画像

 

新年度が始まった。

3月31日から4月1日へと、いつも通り24時を超えただけなのに、途端に日々の生活は途速度を増した。昨日はあんなにゆっくりと回っていた時計の針が、今は外れそうになるほど猛烈な勢いになっているように感じる。

働きはじめて、2年目の春。いろんなものが始まった気がするのに、冷静に振り返るとそうでもないことに気づく。後輩ができたのと、夜間の専門学校に通いはじめただけだった。むしろそのために辞めたことの方が多いかもしれない。副業や、以前手伝っていた知り合いの企画。友達との遊びや銭湯。失ったものも多かった。

だからだろうか、僕は日に日に張り詰めていった。少しだけ凹んでいた風船に、毎日空気を入れ続けるように。ちょっとずつ張りをましていくその風船は、気づいたら周りから見てもパンパンになっていたようだ。

「今年度に入ってからカシコさんは殺気立ってるから」

仕事を手伝おうとした職場の人に、そういって断られた。「殺気」。仕事で出ていいものではないだろう。でも僕自身もそれは感じ取っていた。そしてその原因もわかっていた。

おじいちゃんの後輩

それがこの「殺気」の原因だ。僕は非正規のポジションで働いているため、定期的に組んでいる非正規の人が入れ替わる。そして今年はそのタイミングだった。なんとそこで選ばれたのが70代のおじいちゃんだった(年代伏せようかと思ったけど、もうどうでもいいや)。

詳細は省くが、このおじいちゃん、めちゃめちゃ仕事ができない。どれぐらいできないかというと、「電話もっととってくださいね」と伝えたら「今でもとってますよ!作業中以外は!」と真面目に返してきた。電話をとる回数が少ないから伝えているのに、自分ではやっていると思っている。どうしようもないくらい、仕事ができないパターンだ。あ、ちなみにもちろん、無駄に口だけは達者というオプションもバッチリついている。

問題はあろうことか、僕がこのおじいちゃんの指導役に事実上なってしまっているということだ。20代半ばの僕が70代のおじいちゃんに手取り足取り仕事を教えているその様は、まるで介護だろう。ここまでいうとおじいちゃんがかわいそうだという人がいるかもしれないが、悪いけど僕も試行錯誤しつつ様々な方法を試した。だが、このおじいちゃんはそれを圧倒するほど仕事ができない。

故に僕は毎日殺気だつことになった。自分の仕事もあるし、なんなら2年目で増えている。それをやらなければならないのに、追加でおじいちゃんの介護ときた。はっきり言おう、やってられない。

やってられないけど、僕がやらなきゃ仕事は回らない。だからやった。毎日どうすればおじいちゃんが仕事をしてくれるようになるか考えた。どういう方法を取れば、どういう言い方をすればおじいちゃんに通じるのか。寝る前にふとあの顔がよぎり、朝起きるとあの人に会わなければいけないと感じる。おじいちゃん、おじいちゃん。僕の新年度はおじいちゃんに侵されてしまった。

毎日がどんどん辛くなっていった。今年は自分の好きな映像のスキルを伸ばそうと専門学校にも通い始めたのに、授業に集中できない瞬間がある。さらに言えば、その授業時間を確保するためにプライベート時間が削られているせいで、購入だけした「ブルー・ピリオド」も開けられていないし、今期のアニメも見れていないし、梅田サイファーの新アルバムも聴けていない。

毎日が淡々と、「殺気」だけを増しながら、過ぎていった。

働くとか学ぶとかおじいちゃんとか

そんな中でもなんとか頑張って数本のドラマを見ている。「生きるとか死ぬとか父親とか」はその中の一本だ。さっきちょうど2話を見終えた。

泣いてしまった。

気づいたら、泣いてしまった。そしてふと肩が軽くなると同時に思った。僕はなんでこんなに頑張っているのだろう。僕はなんのために、この日々を過ごしているのだろう。僕はどんな風に人生をいきたかったのだろう。

最近の僕は、僕の人生をいきていないことに気がついた。日々の多くの時間を仕事≒おじいちゃんのことを思考するのに使っていた。自分の好きなものや、好きな時間にすら、その思考が入り込んでくるほどに。これではまるで、僕の人生のハンドルをおじいちゃんが握っているみたいだ。

やめよう

ドラマを見終えた僕は、ふと寝転がってそう思った。おじいちゃんの相手をしていては、僕が僕の人生をいきられない。それだけで十分すぎる理由になる。何もいきなり仕事をやめるわけじゃない。おじいちゃんの相手をするのをやめるだけだ。今まで僕は、自分がやらなければと思っていた。自分がおじいちゃんの相手をしなければと思っていた。でも本当にそうだろうか?そう思い込んではいないだろうか。

おじいちゃんがちゃんと仕事を立派にこなせるようになるまで育て上げる義理など、僕にはあるわけがない。違う。僕は僕のことをやる。そもそもで言えば、おじいちゃんを教育するのはおじいちゃんを雇った職場の責任であり、僕だけの問題ではない。それを知ってか知らずか、僕が必死に、おじいちゃんが仕事ができるようになるレールを引いているそばで、上司は何も言わず見ていた。それどころか僕は上司に提案もして、こういうやり方でやれば伸びるのではないだろうかと、人事的な話すら行っていた。

違う、それは僕のやることじゃない。職場の新人の管理は上司などが責任を持ってやるべきだし、第一僕がそんな仕事をする義理はない。協力しろと言われたら手伝うが、提案までしてこちらが主体的にやる必要は一切ない。あくまでおじいちゃんの相手は職場が行うべきであり、僕はサポートであるだけだ。「じゃあ、どうするの?」なんて気にしてたまるか。それはそっちで考えろ。俺はゴメンだね。

幸せはこぼれやすいから

僕は僕の思う、幸せな人生をいきたい。そのために僕は、僕が抱えられる精一杯の人生をちゃんと選ぶ必要がある。時にはその中に、存在感だけが大きく、他のものを圧迫してしまうものも現れるだろう。そういうものが現れたときには、ちゃんとそれを手放すことが必要なんだと思う。そして、ちゃんと大切なものをしっかりと拾い上げて、抱えておくことが、きっと幸せな人生につながるのだと思う。