生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

意味とか意義とかよりも、無駄を追い求めたい

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「それってなんの意味があるの?」

何かをやろうとした際に投げかけられる疑問だ。確かに仕事ならわかる。その計画や事業を行ってなんになるのか、ちゃんと利益に繋がるのか、どういう目的があるのか、費用をかけることに見合うのか、それら全てを尋ねるものだから。もちろん仕事とは基本的には利益を出してナンボの側面があるので、この意味を問うこと自体は理に適っていると思う。

だが仕事と人生はイコールではない。もちろん人生の中で仕事が占める部分は決して少なくはない。でも仕事だけが人生だけではないというのは、多くの人が賛成するところだと思う。私生活、プライベートというものがあるからだ。仕事は対照的で、何をしてもいい時間、自分がしたいことをする時間だ。だけれど残念ながら、そんな時間に対してもさっきと同じことを聞いてくる人もいる。

「それってなんの意味があるの?」

ないのだ。自分がプライベートで行うことに、意味なんてないのだ。強いていうならば自分が楽しいからやっている。確かにプライベートでも他人に役に立つようなことをしたり、他人を喜ばせるようなことをしている人もいる。何かボランティア的なことをしたり、作品を作ったり。それはとても素晴らしいことだし、誇らしいことでもあるだろう。でも、それを他人に強制しないで欲しい。

昼間からグダっとする。1日中Youtubeを見る。ゲームをする。本を読む。散歩をする。音楽を聴く。競馬に行く。打ちっぱなしに行く。銭湯にいく。ドライブする。ウィンドゥショッピングをする。溜まってたドラマを見る。もちろん他にもいろいろ、いや無限大と言えるほど、プライベートの時間で行えることはある。だがそれぞれに意味や意義なんかを求めて欲しくはないと、僕は思う。

自分の人生の目的があるとするならば、それはきっと「幸せに生きること」だと思う。プライベートの時間は、まさにその「幸せ」に直結する時間なのだ。もちろん仕事で「幸せ」に直結することもできるとは思うけれど、それは人や環境によって難易度が異なる。もし仕事が幸せに直結しない場合、その仕事で稼いだお金で「幸せ」を手に入れることになるのだろう。

一方でプライベートは、誰にも邪魔されず、自分が自由に使える時間だ。その中ならば、自分の「幸せ」に直接触れることができる。さっき出したたくさんの例は、その人が「幸せ」を感じるから行っていることだ。そこにはまさに人生の「幸せ」が詰まっている。そんなところに、「それってなんの意味があるの?」なんて聞くのは、文字通り愚問ではないだろうか。強いて答えるならこうだろう。「私の幸せです」と。

他人から見たときに、無駄であったり無意味だと感じることは世の中に溢れている。テレビのバラエティなんかでは、そういうものを取り上げてイジることで笑いにしているぐらいだ。でもそれらは実は、その人たちの人生の最も大切な「幸せ」な部分だったりする。だから僕はもっと無駄で無意味なことを、笑顔でやれる人たちが増えたらいいなと思う。

余裕があると、何もできなくなる不思議

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今日は久しぶりに時間に余裕がある。やることもいくつか終えた上で、自由に使える時間がたっぷりとある。昨日までやりたいと思っていたいくつものことを、一斉に取り掛かるチャンスな訳だ。何をしようか。文章を書くか、音楽を聞くか、アニメを見るか、映像の制作をするか…選択肢は無限に出てくる。出てくるのだが、どういうことか、そこから一つを選ぶのが突然おっくうになってしまう。

 

書こうと思っていた題材はたくさんあるし、片付けようと思っていた服はおきっぱなしだ。見ようと思っていたアニメは未視聴マークがついたままだし、映像制作のために買ったテキストはまだ1ページも開けられていない。やりたいこととして溜まったものがこんなにもあるのに、なぜか今、僕は全くどれも選びたくなくなってしまっている。

 

でもこれは今に始まったことなんかじゃない。これまで何度もあった。時間ができたらやりたいことを、あれでもない、これでもないと夢想した日々を過ごし、いざその夢の瞬間が現実に訪れると、「はて、何をしようとしたんだっけ?」となってしまう。きっとこの経験は、僕だけのものではないのだろう。

 

どうしてこんなことが起こるのだろう。欲しかったはずの余裕が生まれると、その余裕を持て余してしまう。いろいろな考えがあるはずだ。気が抜けてしまうとか、疲れているんだとか、人によってそれぞれの理由を見つけ出して、何もしない瞬間の自分を肯定しようとする。僕もその一人なのは間違いない。そして多分だけれど、僕の場合の理由はシンプルな気がする。

 

何もしない時間が欲しい。

 

この欲求が自分の中で大きいのだと思う。確かに何かをしたいという欲求も僕の中には、たくさん存在する。でもそれ以上に、何もしない時間が欲しい、という欲求が強く在るのだと思う。しかもこいつのやっかいなところは、余裕がないときにはなりを潜めているということだ。余裕ができて初めて、ひょっこりと顔を出す。そしてそのまま他の欲望もたちまちに飲み込んでしまう。

 

そうすると何かをしたいのに、休んでしまう。生まれてくるのは罪悪感だ。あれをするはずだったのに、終わらせるはずだったのに、今日一日サボってしまった。そんなことがここ数年ずっと繰り返されている。そろそろ学習してなんとかしたいものだなと思うのに、どうも心は言うことを聞いてくれないらしい。いや、僕が心の言うことを聞いていないだけなのかもしれない。

 

とにもかくにも、何もしたくない欲求が出たときは、毎度戦いだ。それも圧倒的に自分との戦い。自分に勝つか、自分に負けるか。そんな文字通りのプロレスをしていると、今日もまた時間が過ぎていってしまうのだ。

ブロガーではなく、エッセイスト

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はてなブログに戻って来て一発目の記事となるので、何を書こうかと思っていましたが、改めてここでどんな風に活動するのかということの意思表明も兼ねて、僕が最近ブログなんかの情報発信サービスに対して思っていることを書こうと思います。

ブロガーはムリ

まず大前提としてですが、僕はブロガーになる気はありません。ここでいうブロガーとは、ブログで有益な情報を発信して、アクセス数を集め、アフィリエイトなどの広告費で利益を出している方達のことを指します。いわゆる個人で文章を発信して、利益を出そうとする人は圧倒的にこちらが多いと思います。というかそれ以外のやり方がほとんどいないように見えると言ってもいいでしょう。

そしてこの壁は、ネットで情報発信をして利益を出そうとした人たちの多くの前に立ちはだかります。「ブログで儲ける=好きな文章を書いて、アクセス数を出して稼ぐ」というイメージが多くの方にあるからです。もちろん僕もその一人でした。ですが実際は、「多くのアクセス数を稼ぐブログ=ニーズのある情報をわかりやすく提供している」というものでしょう。その事実を知った時に、一度は足掻いてみるもののやっぱりムリだと思い、ブログや文章での発信を諦める人は多いと思います。僕自身もその壁にしっかりとぶつかり、挫折をしてここにいます。

でもエッセイなら?

ですがその時に僕は、noteというサービスに出会いました。今は理由があって離れていますが、その中には、マガジンや有料記事というシステムがありました。それは、気に入った筆者の文章を定期購読して読むことができるというものでした。もちろん有用な情報をパッケージングして販売している方もいましたが、自らの思いを綴ったエッセイを定期購読として販売している方も見かけました。

この方法なら、僕にもできるかもしれない。そう思いました。ブログ運営は誰でもできるという意見に、僕は真っ向から反対します。なぜならブログ運営というのは、適性がないとうまく行えないと感じているからです。例えば、世間の流行を掴んで、必要な情報を集め、読者に見やすい形で提供する。この流れをやるだけでもある程度の労力が必要です。それに加えて、これを継続して更新していこうと思うと、粘り強さ、もしくはブログ運営自体を楽しめるスタンスが必要になると思います。ブログ運営をしている方全員がこれらの条件をすべて満たしているとは言いませんが、それでも少なくない数の方が近い状態にあると思います。そして僕の場合、この条件はほとんど当てはまりませんでした。

そんな僕でも、書けるものがありました。それがエッセイやコラムです。これはnoteで活動している中でわかったことですが、僕はエッセイやコラムを週に数本書ける、というか書きたいと思うのです。それはきっと自分の中にあるモヤモヤや、鬱屈とした気持ち、嬉しい気持ちを文章にして表現することで、自分自身がより幸せになるからだと思います。そんな僕が目指すべきはブロガーではなく、エッセイスト(コラムニスト)だと思いました。

エッセイストで稼げるの?

じゃあエッセイストをこのブログで行っていって収益を出せるのか?というと、それはわかりません。ただ手段はあります。

codoc.jp

このサービスは、ブログに書いた文章を有料記事として販売できるものです。うまく使えば、定期購読のシステムも構築できるようです。このサービスを利用すれば、上記のnoteのように、自分の文章を有料で提供するということが可能になります。ということで、システム的な可能/不可能のハードルはクリアできました。

問題は、僕のエッセイやコラムを読みたいと思う人がいるのかってことですよね。現状で言えばほとんどいないと思います。所詮一端の素人ですから。正直「エッセイスト」と名乗るのもおこがましいので、「文章書く人」ぐらいがちょうどいいと思います。で、そんな文章書く人の文章を読みたい方、ましてやそれにお金を払いたい方など皆無でしょう。ですが、それは「今」の話です。幸か不幸か、未来というのは誰にもわかりません。ならば、その未来で誰かが僕の文章を読んでくれるように、今の僕は書くことを続けていきたいと思います。5年間ぐらい続けても誰も読んでくれなかった時は、まぁその時ですかね(笑)

終わりに

そもそも僕はエッセイなどで収益を出すことが最終目的ではありません。多分、エッセイを人生の一部として書き続けることが一つの夢なのだと思います。収益はその過程で生まれるものなのではないのかな?という感じです。ただやっぱり読まれないエッセイを書くのは辛いです。それは今までの経験から、実感として持っています。なので、良い意味で誰かに読まれるようなエッセイを、僕はこれからも書いていきたいなと思います。