生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

「正義」は「正義」のままでは届かない

f:id:becinema:20210119134116j:plain

「○○をしてはいけません」

世の中に溢れる定型句だ。僕たちは小さい頃から、この言葉たちと共に生きてきた。自分がされて嫌なことを人にしてはいけません、食べ残しをしてはいけません、遅刻をしてはいけません。世の中のあらゆることに対して、この定型句は利用されている。でも、この言葉の無力感が、どうも最近の僕には感じられる。

「○○をしてはいけません」では、無くならない

人殺しをしてはいけません。飲酒運転をしてはいけません。ここにゴミを捨ててはいけません。全て日本に住む多くの人が認知しているものだ。でも、これらが日本から消え去ったことはない。毎日のように、事件や事故は起きるし、地域でのトラブルも絶えない。みんながみんなわかっていることなんだけれど、「〇〇をしてはいけません」で「〇〇」が消え去ることはない。

特に最近だと、SNSでのそれが目立つ。「〇〇してはいけません」というよりかは、「〇〇」を取り上げて、それがどれだけひどいことなのかをつらつらと述べるという感じだ。そういう意味で言えば、この文章すらも、「〇〇してはいけません」という対象を取り上げて批判しているわけだから、同じようなものだと思う。うぅむ、難しい。

「〇〇」がどれだけひどいことか、それに声を上げることは僕自身は大賛成だ。これってめっちゃ大きくいうと、デモとかに繋がるのかもしれない。例えば「戦争はやめよう!」と叫ぶデモに対して、それで戦争が無くなることはないのだから無意味だ、という人もいるけれど、僕は個々人が「戦争はやめよう!」と思っているのなら、それを声にすること自体に、なんの是非も許可もいらないと思う(こうなると暴言までOKか?となるのだが、その議論はまた長くなるので今回は置いておく)。

ただ僕が気になるのは、なんのために「デモ」、つまり声を上げているかだ。自分が気に入らないことに対して、声を上げることが目的ならそれはそれでいい。ただし、世の中や社会の仕組みから、その対象を取り除いたり、改善しようとしているのならば、それでは足りないのではないか?と思う。

「〇〇をしてはいけません」で、「〇〇」が無くなることはない。もちろんこれまでの歴史を見たらそういう事例もあるかもしれないけれど、ほとんどの「〇〇」は生き残っていると思う。もし世の中から消えた、もしくは消えかけている「〇〇」があるのならば、それはきっと、「正義」が「正義」でなくなったからなんじゃないかと思う。

「○○をしてはいけません」という「正義」

「○○をしてはいけません」という考え方は、多分圧倒的に正しい。こういう形で論じられるものって、大多数の人に害を与えうるものだと思うから(さっき言った殺人とか、飲酒運転とか)。そういう意味で、これは「正義」とも言える。社会に生きる上で、多くの人が守り、尊重するものだ。でもこれは時として、役に立たない。

「正義」を振りかざされることは、時としてうっとしいからだ。「正論」と言い換えてもいいかもしれない。世の中にはたくさんの「正論」が溢れている。でもその全てを僕たちはできているだろうか?答えは多分Noだ。守れているものもあれば、守れていないものもある。いつもは守っているのに、ときには守れないものもあるだろう。

なぜ「正義」や「正論」を実行しないかと聞かれれば、たぶん僕たちは論破される。だって圧倒的に向こうが「正しい」のだから。だけれど、「正しい」だけで動くほど、人はできていない。「正しい」けどできないこと、やれないことは世の中にごまんとあるのだ。

それなのに、「正論」だけをひたすら振りかざすだけで、何かを変えられると信じている人もいる。僕はそういう人たちに言いたい、「多分あなたたちが思っているより人間は愚かで、怠け者だ」と。その人たちの活動や声が無駄と言いたいわけじゃない。ただその声が届かない、もしくは届いても意味のない人間は、世の中にめちゃくちゃいるのだということ。そういう人たちを変えることができるのは、きっと「正義」や「正論」ではない何かだということ。

「正義」に代わる何か

ではその何かとはなんなのか。多分社会において、この答えはまだ見つかっていない。でも僕個人としては、小さな答えを持っている。それは「文化」だ。「カルチャー」と言った方が感覚として近いかもしれない。例えば政治家が投票に行こうと言うのと、ジャニーズが投票に行こうと言うのでは、多分動く人間の層が違う。と言うか多分投票に行くという結果は同じだけど、それまでの過程やプロセスが全く異なると思う。

「政治に参加しなければ」という動機が前者だとすれば、後者はジャニーズが、もっと言えば「推しが行こうって言ったから」ということになるだろう。もちろんこれはあくまで一例だし、実際にこうなるかとはまた別の話だ。要するに、自分の関心のある「文化」や「カルチャー」の範囲に、「正義」や「正論」が形を変えて溶け込んでいるということだ。

別にジャニーズでなくとも、漫画やアニメ、映画、音楽、コスプレ、その他もろもろなんでもいい。大切なのは、それらに「正義」や「正論」が如何に溶けられるかだ。行政が何かのコンテンツとコラボして、市民にアピールすることはあるが、あれは行政がやっているという「正義」の形のままで、コンテンツに溶けていない。もちろん無意味とは言わないが、ファンとしても、いつものコンテンツと同様に接することはできないと思う。

そうではなく、その「文化」や「カルチャー」の中にあるものと、「正義」が繋がることがあると、人は動いたり、姿勢を変えたりすることがあるんじゃないだろうか。アメリカの歌手、ビリー・アイリッシュなんかも、そんな感じな気がする。彼女という「カルチャー」に触れている人たちには、行政から言わされた言葉ではなく、彼女自身から出た言葉で、初めて政治に参加しようとした人もいると思う。

「他人ごと」から「自分ごと」へ

大切なのは、「正義」が「正義」のままでは「他人ごと」として捉えられてしまうこと。「正義」が「正義」の形を無くして、自分の周りに「自分ごと」として現れるようになって初めて、動く人たちも大勢いるということ(もちろん僕も)。「正義」を「正義」として振りかざしている人たちには、そういう人たちもいることを覚えておいて欲しい。

そして同時に、SNSをはじめとする、いろんな場所で発言ができるようになった僕たち自身も、自分が声を上げるときに、ふと立ち止まって考える必要があるのだろう。僕らが振りかざす「正義」がどんな形をしているかということを。

 

オンライン英会話を勢いで申し込んだ話

f:id:becinema:20210109223501j:plain


やりたいこと

やりたいこと。そう言われて何個あげることができるだろう。そんなことを思ったのは、二十歳の誕生日を迎えたときだった。自分の人生の節目を迎えたというよくある理由から、自分の人生を見直してみた。何にもないかもなぁ。そんな風に思いながら、でもそれでは寂しい気がして、そこからやりたいことを増やしていった。

それから数年。今の僕はあの時の自分からは信じられないくらいやりたいことに溢れている。文章を書いたり、ラップをしたり、映像を作ったり、漫画を読んだり、ラジオを聞いたり、サウナに行ったり、美味しいもの食べたり。毎日仕事なんてしてる暇がないくらいに、やりたいことだらけだ。

とても嬉しい状況だけれど、ここでも少し問題があった。やりたいことだらけで、何から手をつけていいかわからなくなる。物事には優先順位というものがつけられるが、生憎僕はそれが苦手だ。もっといえば、優先順位はつけられるけれど、その優先順位の通りに行動することが難しい。絶対に今やらなければいけない、圧倒的優先順位1位のものがあったとて、その時の気分でやることを決めてしまう。(順位とはなんだったのだろうか…。)

気持ちとか気分とか

でもこのやり方って実は案外悪くないところもある。それは、自分がやりたくないとか、嫌だなって感じることに関してだ。やらなきゃいけないことの中に、自分があまり進んでやれないもの、やる気が起きないものって大抵みんなあると思う。(ない人はめちゃめちゃすごい人なので、マジでそれを誇っていい。)そんなものに優先順位をつけたところで、やるべきであろうとなかろうと、結局やりたくなくなってやらずに終わってしまうというオチもよくある。そこで登場するのがこの気分の話。

自分が嫌なことに対して悩んでいる時、急に吹っ切れる瞬間ってないだろうか?考えすぎたり悩みすぎたりした結果、「ええ〜い!もうどうにでもなれぃ!」みたいな感じ。でもこういうのって、ちょっと経つと冷静に戻ったりする。だから僕はその瞬間を逃さない。「どうにでもなれ!」と思った瞬間、行動に移している。何もそんなに大袈裟な話じゃない。勉強しなきゃとか、あの人に話さなきゃとか、予約しなきゃとか、そういう小さな小さな、でも自分からしたら大きなことだ。

オンライン英会話:お昼休み

一昨日もそれをした。今年の目標の一つに英語力の向上を挙げている僕は、オンライン英会話を年始から始める予定だった。そう、「だった」。一昨日は1/8。年が明けてから一週間以上も経っていた。始めなきゃな…でもまだ不安だしな…。そうこうしているうちに、仕事が始まり、2021年の一週目が終わりを迎えようとしていた。

昼休み。ご飯を食べながら、英語の勉強について考えていた。「でもまだ今年の英語勉強のスケジュール立ててないし、英会話は後からでもいっか?」とか考えていた僕の脳内に、突然衝動が走った。

「今、英会話を予約しろ!」

なぜかわからないけど、突然この声が僕の頭の中に鳴り響いた。そう、こういう突発的な瞬間の思いこそ、僕は大事にしている。この瞬間を逃すと、次はだいぶ先になることがわかっているから。そして今この声を聞かない理由なんて、実はどこにもないから。この瞬間を逃したら、何かが遠のいてしまう。そんな脅迫めいた思いに駆られて、僕は昼休み終了の3分前に、オンライン英会話の予約をした。

オンライン英会話:帰宅後

帰宅後。英会話の予約をしていた時間が迫る。久々の英会話。どうやって進めようか、何を話そうか、自己紹介ってどうやるんだっけ、解決するはずもない不安が僕の中を襲いまくる。もちろんその答えが見つかることはなく、レッスン開始の時間になった。講師が画面の向こうに現れる。とっさに僕は「ハァ〜イ」と、初心者丸出しの挨拶をした。

その後も英会話は続く。相手の質問が何言ってるかもよくわからないし、自分が何を言っているのか、そもそも何が言いたいのかもよくわからない。案の定出てくる英語は支離滅裂で、動詞が二個出てくるわ、時制が過去と未来を行ったりきたりだわ、いわゆる散々という結果だった。

めちゃめちゃ悔しかった。自分がこれまでにしてきた英語の勉強が全然足りていないことがわかったし、純粋に話せない恥ずかしさや、もどかしさもあった。25分のレッスンはそのまま終了。相手の人がめちゃめちゃ優しかったので、こっちのペースに合わせてもらえたけれど、とてもslowlyな会話だった。

でもやれた。25分間、相手に待ってもらいながらも、言語が異なる人とのコミュニケーションをし終えた。そう思った瞬間、どっと安心感が出てきた。達成感を感じるようなことは何もしていないのに、何かを終えたような感覚になった。まだまだなとこはあるけど、ガンバロ。なぜかそう思えた。やって良かったと、心の底から思えたのだ。この前を向いた自分の気持ちは、お昼休みにした勢い任せの予約から産まれたものだった。パサパサになった口で飲む水は、死ぬほどうまかった。

最後に

何かに取り組む時。いろいろな方法があると思う。世の中にはそれを論理的に、科学的に研究したものや提言しているものもたくさんある。でも残念ながら、自分の気持ちがそれに追いつくかは別だ。だからこそ、たまには気持ちに正直になって、何かに取り組んじゃうのもアリだと思う。もちろん失敗もあるけれど、自分でもびっくりするようなものが手に入ることがあるかもしれないから。

2020年はHIPしてHOPした年だった

f:id:becinema:20210105010144j:plain


明けましておめでとうございます。新年になかなか執筆できずにいましたが、昨年のまとめを書いていないので、ちょっと振り返りの時間を取ることも兼ねて、文章にしていきたいと思います。 

梅田サイファーと出会って

昨年は、僕がガッツリHIP HOPにハマった年でした。きっかけは忘れもしません。2月8日土曜日、18時から梅田CLUBQUATTROで行われた、梅田サイファーのライブでした。それまで僕は、音楽を聞いたり、ラッパーのラジオ(Creeoy Nutsのオールナイトニッポン0)を聞いたり、バトルの動画を見たりという形で、HIP HOPと触れていました。特にバトルから入ったこともあって、曲にはまだまだ馴染みがなく、もっといえばHIPHOPがどんな文化なのかということも、ほとんどわかっていませんでした。ラップ=HIP HOPみたいなイメージでしたね。

そんな中でもハマっていたのが梅田サイファーというグループでした。このグループが2019年に出した「マジでハイ」という曲があまりにも気に入りすぎて、1年以上ずーっとリピートして聞いていました。

youtu.be

そんな梅田サイファーがライブするということで、僕は足を運んでみることにしました。確か1年かけて全国を回っていたと思うのですが、他のライブ会場の映像とかも出ていて、それを見て楽しそうだなぁと思い、チケットを購入しました。全国を回っている間にも梅田サイファーは新曲を出して、僕のライブへの期待はどんどんと高まっていきました。

youtu.be

そして迎えた当日。ライブは言わずもがな最高でした。でもそれ以上に僕はHIP HOPというものがなんなのかということを感じました。ある曲の最中でした。僕は気づいたら泣きながら頭をふっていました。生まれて初めての体験でした。とある人に向けたその曲は、マイクリレーをしているそれぞれのラッパーの想いがこもった曲であり、メッセージでした。

これがHIP HOPなんだな

そう感じました。頭ではなく身体で理解したという感覚が近かったと思います。そんなのはHIP HOPではないという人もいるでしょうが、あの瞬間、HIP HOPをただのラップとして、曲として聞くという次元を超えた気が、僕にはしました。それと同時に思ったことがありました。

これってもしかして僕にもできるのかもしれない

リスナーからプレイヤーへ

ライブを見ていて感じたのは、「言葉」でした。もちろん、韻とかフローとか、ラップの技法としての言葉という側面もあります。ただもっと根底に、ラップというのは、人に自分の思いを伝える「言葉」なんだと強烈に感じました。それは言い換えれば、自分が普段していることに繋がるんじゃないのか。僕たちは日頃から、言葉を使って自分の考えや思いを伝えています。僕の印象ではラップはそれらをもっと突き詰めていった先にあるものだと感じました。

自分の中にある、悩みや苦悩、喜びや楽しさ。一言では言い表せないようなそんな想いを、ラップという形にしているんだと。もちろん僕の中にもいろんな考えや気持ち、もっといえばそんなものにすらなっていないモヤモヤがあったりします。そんなものをラップを通して、自分の外側に出せたら。そういう考えが自分の中を一瞬よぎったのです。

そしてそれを止める理由はどこにもありませんでした。ラップをするのに必要なものは口だけです。言葉を話すことができれば、ラップはできます。別に話せなくても、歌詞は書けます。技術は後からつけるものだし、どんなラップをしていくかは少しずつ考えていけばいい。ただ心の中をラップという形にして吐き出したい。この気持ちを曲げちゃいけない気がして、僕のラップ人生は始まります。

そうしてライブの次の日。僕は早速地元のサイファーに行きました。サイファーとは、ラッパーが日頃のおしゃべりのような感覚で、円を囲んで即興でラップをすることです。僕の住んでいる地域にもサイファーがあったので行きました。最初は見学だけのつもりでしたが、参加していた人に「やっちゃえ!」と言われて、気づいたらラップをしていました。とても楽しかった。その印象が今でも一番強いです。拙いながらも、初めて(正確には2回目)ラップをすることができました。それからそのサイファーには、予定が合うときは顔を出すようになりました。

そこから日々フリースタイル(即興)ラップを練習するようになりました。練習といっても、ぶつぶつとラップらしいものを呟くだけです。時間に余裕があるときはビートに乗せて、通勤中とかは、人に聞こえないぐらいの小さい声で。今その瞬間に思っていることや、見かけたものでラップをするようにしました。その中で少しずつですが、自分の抱えていたモヤモヤなんかもラップにすることができるようになりました。ラップって楽しい。かつてリスナーだった僕は、少しずつプレイヤーになっていって、今もその変化のまっ最中です。

こんな感じで2020年はHIP HOPと僕の関係性が大きく変わる年となりました。ただ、僕が2020年を通してHIPしてHOPしたと言うのは、何もライブに行ったり、ラップを始めたからではありません。HIP HOPから学んだことが、人生に浸透し始めたのが僕にとっての2020年だったからです。

浸透するHIP HOP

梅田サイファーのライブ以降、HIP HOPに触れる度に僕が感じたのは、自分に正直に生きるということでした。それをHIPHOPでは各々の「リアル」と言ったりしますが、何がリアルで何がフェイク(リアルの対義語)という論争もあったりするので、ここではあまりその言葉を使わずに進めたいと思います。

ラッパーの人たちは自分の人生を歌詞にしてラップにしています。その中には自分がどう生きたいかとか、どんなことに憤りを感じているのかとか、清濁を合わせた自分自身の意見が出てきます。世間の評価ではなく、絶対的に自分の評価です。その評価軸には様々ありますが、自分の信念や筋が通っていないことは歌詞にしないし、やりません。

僕もそれがしたいと思いました。自分だけの幸せや正解ってなんなのか。何をして生きていきたいのか。それを得るため、するためには何をすればいいのか。そんなことをこれまでの人生で最も考えた1年でした。さらにいえば、その考えたものを最も実行に移した1年でした。

春の初めに、僕はいろいろなことに挑戦してみました。ブログやゲーム実況、映像制作、Twitterとか本当にいろいろ、興味があるものにはとりあえず挑戦してみました。ですがその中で、やっていて自分が楽しくないものと楽しいものに別れることに気付きました。特に一番大きいなと感じたのが、僕はどうもお金稼ぎを楽しいと思わないということでした。

それに気づくまでは、なんとかお金につながることをやろうと活動していました。ブログで広告費を稼いだり、Youtubeで一発当ててやるとか。でも当然ですが、そのためには試行錯誤が必要です。でもその試行錯誤が全然できませんでした、というかやりたくないなと思いました。そこで初めて、僕はお金を稼ぐことを目的として何かを頑張ることができないらしい、と気づいたのです。

言ってしまえば、お金を稼ぐことは僕の幸せに直結しないということです。こうなるとお金を稼ぐことが大変なことになってしまうので、人生ハードになるかも?と思っていましたが、実はむしろ逆だということにも同時に気付きました。なぜなら僕の幸せは、何かを作ることと繋がっているということがわかったからです。

創作と幸せ

何かを作ること、創作。この文章を執筆することもそうですし、映像を制作したり、ラップをしたりすることもそうです。何かを生み出すこと、それ自体が自分の人生の幸せになるんだと気付きました。お金を稼げるかどうかはいったん置いておいて、自分が楽しそうなことをしてみる。そうやって創作に意識的に取り組むようにしてみました。すると少しずつですが、人生が楽しくなっていきました

映像を作る。文章を綴る。ラップをする。そんなことたちを繰り返していると、時間はあっという間に過ぎていきます。夢中になっていると言えるかもしれません。そんな時間が僕の人生を占める割合が大きくなっていったのです。気づけば毎日、何かしらを創り、生み出すことをするようになりました。

そんな中で新たな目標も生まれました。もっといいものを創りたい。もっと長く創作をしていたい。そう思うようになりました。そのためにはもっとたくさんのことを学ぶ必要があるということも感じるようになりました。自分がどんな人生を送りたいのか、僕なりのHIP HOPとはなんなのかということが、少しずつ形になってきました。

HIP HOPと2021

そんな風にして、HIP HOPは僕の2020年にとても大きな影響を与えてくれました。自分の評価軸を持つこと。自分の幸せを考えること。そして、その幸せに近づいていこうと行動すること。やりたい、楽しそうと思ったなら、ラップしてみればいい。あとのことは、そこから考えればいいから。そんな風にして過ごした先にあったのは、めちゃめちゃ楽しい人生でした。

2021年は、そんな2020年のさらに先を進みます。もっともっと加速したい。この1年はきっと今後の人生の一つのターニングポイントになる、そんな気がしています。そんな想いを、映像やラップや文章や他にもいろんな形で、僕の外側に出して、どこかの誰かに伝えることができればいいなと思います。最後に梅田サイファーの歌詞を引用して、この記事を締め括りたいと思います。

 

「俺らマジで頑張る」 From トラボルタカスタム