生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

『アナと雪の女王2』を見て感じた、歴史に対する態度への疑問点

突然だが、『アナと雪の女王2』(以下アナ雪2)を先日見てきたので、気になった部分の感想をメモしたい。

あくまで超個人的なメモである。もちろんネタバレだらけだ。

そもそも記憶違いの部分があり、このメモ自体が破綻している可能性もある笑。

また今から書く、僕の感じた違和感が、アナ雪2をつまらなくしてるとか、

アナ雪2のつまらない点、というわけではないので、

そこは勘違いされないようにしてほしい。

なぜなら僕は、毎朝アナ雪2のサントラを聞いているほどにははまっているからだ。

映画としては普通におもしろい、という感想を置いたうえで早速話していこう。

<歴史というテーマ>

今回のアナ雪2では、

過去の過ちにどう向き合うか、

ということが大きなテーマだった。

その過去とは、アナとエルサの国、アレンデールが、かつての近隣国、

アートハランを侵略しようと攻撃を仕掛けたということである。

エルサの氷の力を使って、その事実を知ったアナは、その解決のために行動にでる。

<解決策としてのダム>

アナは、アレンデールが侵略のために、アートハランに設置したダムを壊すことを決意する。

それは、ダムの決壊によってアレンデールが崩壊しても構わないという上での選択だった。

森の精霊を利用して、破壊されたダムからは大量の水があふれ出る。

<すべてを救うエルサ>

だが、アレンデールに押し寄せた波は、水の精霊によってかけつけたエルサによって食い止められる。

その後、エルサは自分のいるべき場所として、アートハランを選択し、

アートハランで生きていくことを決心する。

<気になった点としての「責任」>

僕がこの中で気になった点は、アナとエルサの「祖父」への淡白な態度だ。

アレンデールがアートハランを攻撃するように指示したのは、

当時アレンデールを治めていた、アナとエルサの祖父だ。

しかし、アナとエルサは、自分たちの祖父がその過ちを犯したことに対して、感情が揺さぶられることはない。

さらにいえば、かつての国王が、アートハランを裏切ったことを意識していないのだ。

まるで

どこかの全く関係ない悪者が、悪いことしてたの見つけたよ!

とでも言わんばかりだ。

それは、「裏切ったのはアレンデールだった」という、アートハランへの報告からもわかるだろう。

「私たち」という主語が、セリフや感覚から抜けているのだ。

そうここには僕から見たときに、決定的に欠けている、と感じるものがある。

それは「謝罪」だ。

そもそも歴史の過ちを償う際に「謝罪」が必要かどうか、

ということもまた一つの論点となるだろう。

ただここでは、僕の感じた疑問点としての考えを述べているので、

歴史の過ちに対する「謝罪」は必要である

という前提に僕が立っていることを踏まえたうえで、

読み進めてもらえるとありがたい。

<「謝罪」の不在と押し付けた贖罪>

さて、話を続けよう。

アナとエルサはアレンデールがアートハランに対して、

侵略を仕掛けたことに一切「謝罪」の言葉を口にしない。

もちろん、自分たちの祖父が攻撃をしかけた、なんてことは尚更伝えない。

その「謝罪」がないまま、急にダムを怖し、急にアレンハートに居続けるのだ。

つまり、この流れを整理すると

問題の構築(過去の侵略のためのダム建設)→侵略→問題の撤去(自ら建設したダムの破壊)→和解

となっている。

これだと、勝手に邪魔なものをつくって、それを撤去さえすれば、許されるという行為になっている。

これは僕から見たとき、加害者側が勝手に罪を償ったように見えた。

ダム壊したから和解しよ!

という過去の贖罪をアートハランに押し付けているように感じた。

この過程の中でエルサたちがアレンデールの王族として、謝罪を行うシーンは描写されない。

(僕の記憶が正しければ)「本当にごめんなさい」と、アートハランの人々に一言を添えることすらなかったように思える。

繰り返しになるが、ここには一貫して、

自分たちの歴史

という主語が抜け落ちている気がする。

エルサたちの態度は、どこかの悪者が行った悪事を正しに来る、ヒーローのような態度なのだ。(親愛なる隣人という言葉が浮かんだが、そっとしまった笑)

これは同時に罪の被害者となったアートハランの人々の立場を軽視している。

それはアートハランの人々が、どのように過去の歴史や今の贖罪を受け止めるのか、

という反応の描写があまりないということだ。

アートハランの人々が何をどう感じたか、ということが抜け落ちることは、

彼(女)らの主体性を奪うことになりかねない

と僕は考える。

では、「謝罪」が抜け落ちたままの、

この歴史に対する行動は全くもってナンセンスだったのだろうか?

僕の答えはYes→Noに変化してきている。

<罰ではなく行動を>

「謝罪」は行わないものの、

今できることをする、

という信念に基づき過去の過ちを振り払おうと、ダムを壊す決意をしたアナの行動は素晴らしい。

そして同時にそれは、自分たちの母国、アレンデールの崩壊を覚悟したものでもあった。

過去の償いのために、現在において代償を払うことを覚悟し、アナは行動した。

しかし、実際にはパワーアップしたエルサによりアレンデールは救われる。

つまりここには、過去の過ちにより罰を被る、という構図が否定されているのだ。

最初はこの展開に疑問を抱いた。

そんなにうまくいっていいのか、これでは加害者側が、一人勝ちをしているのではないか、と。

しかし、ネット上ではあるが様々な意見に目を通すうちに、アナ雪2が

罰を受けることが重要ではなく、今過去の贖罪のためにできることをする

という考えを尊重している、という意見を見て腑に落ちた。

進撃の巨人」なんかを読んでいても感じるが、

自分たちの遠い歴史の中にある罪に対して、

どう向き合えば、どう行動すればいいのか、というのは大きな問題だ。

これに対する完璧な回答はいまだ見えてこないし、

そもそも存在しないのではないかとも思う。

そんな中で、アナ雪2ではそれを、

罰を受けるのではなく、今できることをする

という回答を選んだということだろう。

この考え方は、歴史と対峙するときの一つの指針となるかもしれない。

ただこのような行動をしているからといって、

「謝罪」を行う必要がない

ということには決してならないだろう。

それはまた別のラインで考える必要があるものだからだ。

<結局どうなの?>

長々と書いてきてしまったが、まとめに入ろう。

アナ雪2では大きなテーマとして、

過去の歴史の中における罪にどう向き合うか

ということが設定されていた。

その答えは、

現在の人々は罰を受けるのではなく、今できることをする

というものであった。

しかし、そこには

罪の被害者に対する「謝罪」が存在せず、

加害者側の一人よがりのような姿勢になっているのも、事実だろう。

もっといえば被害者の主体が抜け落ちている

ともいえる。

これを踏まえると、歴史という大きな問題に対する、

ディズニーの回答は成功したとは(僕からすると)言い切れないだろう。

(もちろん受け取り方は人それぞれなので、失敗したとも言えないのはもちろんだ。)

しかし、この歴史というテーマに挑戦したことは称賛に値するし、

なによりこのような問題に対して、

この記事のように観客になにかを考えさせる、議論するきっかけをもたらしたこと自体

がとても素晴らしいことだと思う。

ここまで記事を読んでくれた方にはぜひ声を大にして言いたい。

アナと雪の女王2』をまだ見ていない人はぜひ見にいってほしいし、

既に見た方も、もう一度あなたの意見を考えてほしい。

なぜなら、歴史という、既知であり、未知の旅への扉を開ける映画が、

アナと雪の女王2』なのだから。