生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

「続けない」ことを「続ける」

note公式のお題企画で、「#習慣にしていること」というのがあったので、自分なりに習慣になったことを考えてみたらタイトルのような形になった。万人がうなずくような話ではないと思うけれど、僕みたいなタイプの人には役に立つかもしれないので、一応共有しておこうと思う。

続けるのが苦手

大前提として、僕は何かを続けることが苦手だ。今まで手を出したものの、身にならずに、部屋のインテリアと化したものも多い。いくつか礼を挙げると、楽器や運動、読書、勉強などが思い浮かぶ。僕の部屋を見れば一瞬でわかるが、ホコリを被ったキーボードに、半分以上を残したままの小説、そもそもまともに読んでもいない英語学習の本など、僕のこれまでの挫折がモノとして物質的に感じられる空間になっている。興味は引かれやすいが、その興味が満たされるとそこで辞めてしまう、僕はそんな急速冷凍タイプだ。

理由を考えた

なぜこんなにも続けることが苦手なのだろうか。僕はあるときふと考えた。手を出した当時から続けていれば、身になっていたであろうモノが急に惜しく思えたからだ。考えを巡らせる中で、なんとなく答えがまとまってきた。

まず、挫折したことの大半が、毎日やろうとしていたものだった。毎日キーボードを押さえようとか、毎日この小説を読もうとか、毎日この参考書を解こうとかだ。「毎日の積み重ね」は大事だが、僕はこれを「毎日」積み重ねることが重要だと思っていた。今思えば「積み重ねる」の方が重要だろうに。

次に気づいた部分が、量的な目標設定だった。キーボードは30分は練習しよう、本は40ページは読もう、問題は3問は解こう。こういう風に、質ではなく量で目標を決定していた。質にかかわらず、量的な目標が達成できたがどうかだけで、その日の良し悪しを決めていた。

この二つのことから僕は、自分が「続ける」ということが苦手な理由を解明した。ずばり、「ならない」である。毎日やらなければ「ならない」、これだけの量をやらなければ「ならない」。この「ならない」というプレッシャーに僕は押しつぶされた。「ならない」ことを達成できなかった日は自分にとってBadな日となってしまう。それがイヤだから、練習したり読んだりする。だがその結果として「ならない」をクリアしたとしても、それは嬉しいことではない。なぜなら、やらなければならないことをやっただけなのだから。そんなことの繰り返しばかりでは、当たり前だがしんどくなる。しんどくなると、僕は止める。「ならない」なんか「知らない」となってしまう。

「ならない」をやらない

だがそんな僕でも、4月に入ってから現在まで続けれらていることがいくつかある。それは、「続ける」ということに対する考え方を改めたからだ。もっと言うと、「ならない」をやらないことにしたのだ。

僕の新しい考え方はこうだ。
・楽しんで無理なくやる
・やりたいときにやる
・やりたいだけやる

自分の中から、「やらなければならない」ことを無くし、その代わりに楽しむことを重要視するようにした。毎日やらなくもいい、20ページで終わってもいい。こう考えるようにした。その理由は、楽しいことって続くからだ。

当たり前だが、楽しいことって自然とやりたくなる。だが、それは決して毎日じゃない。例えば、いくらゲームが好きと言っても、365日毎日ゲームをすることは結構大変だ。そこで僕はこう考えた。無理に続けなくていいや。つまんなくなったら、続けない。でもそれはやめてしまうことじゃない。なぜなら、楽しいことって自然とまたはじめたくなるから。それは0からのリスタートじゃなくて、前回からの続きになるから。「続けない」期間を挟んだとしても、そのものごとの経験や体験は「続いていく」。そんな当たり前のことに、僕は今更気づいた。

大事なのは、「続けない」期間の後に、またはじめたくなること。楽しくてやめられないようにすること。「続けない」ということも含めて、「続ける」ことだ。

現在続いているもの

そんなこんなで僕は現在、4月からいくつかのことを続けている。趣味(今のとこ)の映像制作は週に5、6日は行っているし、リングフィットアドベンチャーは週に4回はプレイしている。また掃除なんかも、以前は2ヶ月ぐらい放置することもあったが(我ながらヤバイ)、現在は月に3回、ラジオを聴きながら行っている。こんな感じで、自分が楽しいと感じることを、「続けない」で「続けて」いる。

終わりに

お題の「#習慣にしていること」とは少しずれてしまったかもしれないが、強いていうなら「『続けない』ことを『続ける』という考え方」を僕は習慣にしているのかもしれない。まだはじめて10日目のnoteの投稿も、この考え方で続けていければいいなと思っている。そしてもし、この考え方が誰かの「習慣化」の参考になったのなら、それは僕にとってとても嬉しいことであるし、また楽しいことでもあるのだ。