僕はあなたの「でも」が読みたい
noteにはいろんな人がいる。
記事を読む人。
サークルを作る人。
記事を執筆する人。
記事を執筆する人の中でも、いろんな人がいる。
ビジネス系の記事を書く人。
小説を書く人。
エッセイを書く人。
他にもたくさんいる。
僕はその中でどんな人の記事が読みたいかというと、
流れに抗う人の記事が読みたい。
僕がnoteで読むものは、主にエッセイだ。
元々書籍としてエッセイを買っているのもあるかもしれない。
ちなみに大好きなエッセイ集は、オードリー若林さんの本だ。
なぜこの本が好きかというと、若林さんが世間や社会に対して、嫌だなと感じたことに抗っていると、感じたから。
エッセイというジャンルは、何を書いても良いものだと思う。
日々のちょっとした出来事や、逆に一大イベントでも良い。
僕自身も、読むときに題材は特に気にしていない。
ただ僕はそこに、その人なりの「でも」がある文章に惹かれる。
「でも」
これはその人の抵抗の象徴だ。
自分の身の回りでは、毎日たくさんのことが起こる。
それも身一つでは追いきれないスピードで。
流れに身を預けているうちにどんどんと時は過ぎていってしまう。
それは同時に、思考や疑問の機会すらも飲み込んでしまう。
「でも」はそんな激しい激流の中であえて立ち止まることで生まれる。
生活ができないわけじゃない。
幸せを感じないわけじゃない。
「でも」何か違うんじゃないか?
社会や世間で当たり前とされていることに対して疑問を抱く。
「常識」を疑って、自分なりの答えを見つけようともがく。
相手は「常識」や「当然」、それから「普通」。
とてつもなく強大な相手だ。
それでも、大きな流れに逆らいながら、考えて、考えて、考える。
体力のいることだ。流された方が楽だから。
しんどいことだ。周りの人は「何してんの?」と聞いてくるから。
辛いことだ。自分の違和感と向き合うことだから。
だとしても、その「でも」を考えなきゃダメなんだという瞬間があると思う。
でも、それっておかしくない?
でも、それって本当?
でも、私は嫌だな。
でも、辛いな。
でも…でも、でも。でも!
こうやって生み出された文章を、僕は叫んでいるように感じる。
周りが何と言おうと、私は、僕は、自分は、そうは思わない!
これほどの主張をするのには、残念ながら今の日本では大きなエネルギーがいるだろう。
でもそれだけエネルギーのこもった文章には、ちゃんとそれに見合った輝きがあると、僕は感じてしまうのだ。
だから僕は今日も探している。
どこの誰かも知らない、あなたの「でも」を。
見ず知らずのあなたの叫びを。
そしてそれを見つけたときには、しっかりと足跡を残すのだ。
あなたの叫びはちゃんと聞こえているよ、と。