生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

目の前の365よりもちょっと先の1825を見る

1年は短い。今年も気づいたら9月になっていて、あと4ヶ月もすれば、来年になる。僕は今年になってから何をやってきただろうなんて思うと、片手で足りるぐらいのことしかやっていない気がする。その中の一つが、このnoteだった。きっかけは単純、勧められたから。「noteはエモいんすよ。」エモいのか、やってみよう、だった。

noteを始めて、なんとなく雰囲気がわかってきた頃、少し目線を高くすることにした。どういう形で、ここでの活動をやっていこうかということを考えた。いろいろまとめた考えは、自己紹介の記事にでも載っているので見てもらえればと思うのだけど、そこには書いていない、ぼんやりとしたものをそのときに決めた。

5年。5年かけて、ここでの活動を続けていって、何かの形にする。それがぼんやりの正体だった。なぜ5年なのか、何かの形ってなんなのか、という問いには答えられない。あまり理由がないから。でもこれぐらいぼんやりとしたものを携えると、少しだけここでの景色が変わる気がした。

世間や社会では、とてつもないスピードで何かが形作られていく。それは数年なんて長い期間ではなく、1年や半年、早いもので言えば1ヶ月や数週間で生まれるものもある。そしてその速さで動くことに慣れた人たちは、1年もあれば、なんかできるっしょ!という目線でこちらを見てくる。

でも僕はあえて言いたい。「いえ、1年では多分何もできないです。」実際の問題として、僕自身がそのスピード感で動くのに慣れていないというのもある。だから1年で何かを成し遂げられる人たちをすごいなと思うし、羨ましくも思うし、ちょっと妬ましくも思う。でも同時に考える、その1年で生まれたものはどこまで続くのだろうか

続かなくてもいい、また新しいものを生み出せば。という考えもあるのは知ってる。ただ、僕にそれはできないし、やろうとも思わない。一瞬でいろんなモノやヒトが集まって、ちょっとしたら離れて、また別の形でモノやヒトが集まる。楽しいとは思うだろうけど、ちょっと疲れそうだと感じてしまう。その速さを維持すること自体に、僕はきっと疲れてしまう。

だから僕はあえて時間をかけて取り組みたい。ゆっくりとした流れには、きっと一度に多くのヒトが集まることはない。でもそこには、僕の流れを心地よく感じてくれた人が、ぽつぽつと集まってくれると思うのだ。そしてその流れは僕にとって自然体だから、長く続けていくことができる。そうしたら、残ってくれる人も増えて、少しずつ人が増えていくんじゃないかと思う。

僕の周りに人が集まってきたら、色んなことをその人たちとしていきたい。それは無理のない範囲で、でもみんなで楽しめるようなものを。それがきっと何かの形になると思う。だから今は目の前にある365日に焦ることはしない。少し先の5年、1825日を見据えて、ゆっくりと流れを絶やさないだけだ。