生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

僕が男性で異性愛で健常者で右利きという「アタリマエ」

僕は20代だ。性別は男性で、恋愛対象は女性。体に不自由な部分はなく、効き手は右利き。とても「普通」で、とても「アタリマエ」なプロフィールだ。

そんな僕は、この日本社会において、ものすごく恵まれてしまっている

世の中にはたくさんの人がいる。世界の人口で見たら70億人以上の人間がいる。日本ですら、1億2000万人以上の人たちがいる。でもそんな中で、社会の中の不平等に出会っていない人の方が圧倒的に少ないと僕は思う。

男性ということ

僕は男性だ。少し過激な言い方をするが、この日本社会では男性というだけで女性よりも生きやすくなっている。働くシステムでいうと、まず男性よりも女性の管理職が少ない。さらに、育児休暇などのシステムがまだ全然機能しきっていないことからも、育児の負担は女性に重くのしかかりがちだ。

学校はどうだろうか。僕は運のいいことに、学生として、露骨に男女の差を感じたことはない。先生から男だからとか、女だからとか、みたいな言葉もあまり聞いた覚えがない(もしかしたら僕が忘れているのかもしれないが)。ただ、医学部の入試において、男女で差をつけていたことが発覚した事件も起きている。学校という場においても、男だから得をする部分は存在している。

結婚したらどうだろう。今の日本のシステムでは、夫婦は姓を揃える必要がある。だけど、多くの場合、女性が男性の姓に合わせることになる。そうすると、様々な書類や契約などの名義を変更しなければならない。でもそれは女性がやるだけだ。

僕が男性で一番メリットを得ているのは、犯罪だろう。特に性犯罪の多くは、加害者が男性で、被害者が女性だ。女性専用車両というものが一般化する程度には、女性への犯罪が多いことが常識となってしまっている。言い換えれば、女性というだけで犯罪に巻き込まれる可能性がある。

女性はこれらの問題を、女性だからというだけで関わらなければならなくなってしまう。一方で男性の僕は、直接的な事件などにならない限り、これらの問題と関わらずとも生きていけてしまうのだ。

僕は男性というだけで恵まれてしまっている。

異性愛ということ

僕は異性愛者だ。恋愛対象は女性で、性自認は男性だ。しようと思えば、女性と結婚ができる。結婚をすると、いろいろな制度が使えるようになる。扶養控除なんかで税金は減るだろうし、互いの資産相続も行える。もし子どもができれば、親権は互いに持つことができる。他にもいろいろなメリットがある。

そもそも周りの人が僕のことを簡単に認めてくれる。「彼女は?」と聞いてきて、「いないいない」と笑いながら言える。僕がどんな彼女を連れてきても、家族や友人の誰も驚きはしない。人間的に合う、合わないはあるかもしれないが、彼女というだけで無碍に扱われることはないだろう。

同性愛者を含む性的マイノリティの人々は、そうはいかない。日本では結婚が認められていないから税金の控除が使えない場合もあるし、互いの遺産相続も難しい。子どもがいたら、親権は母親にしか与えられない。自分の性についての話を周りに話すことが大変な場合も多い。そしてそれが受け入れられるという保証も、どこにもない。

性的マイノリティの人々は、人を愛するという一点においても、異性愛じゃないというだけで、制度からも社会からも受けいられないことがある。でも僕にはそれがない。なぜなら異性愛者だから。

僕は異性愛者というだけで恵まれてしまっている。

健常者ということ

僕の体には、障害がない。動かしにくい部位はないし、常に人から助けてもらう必要もない。自分一人で出勤できるし、自分でご飯も食べれる。こうやって文章も書けるし、買い物もできる。狭い道だって通れるし、エレベーターがなくても、階段を登れる。

でも障害者の方はそうじゃない。自分の体でも自由に動かせないことがあるだろうし、介助を必要とする人もいる。出勤や通学で駅員さんの力を借りることもあるだろうし、食べにくいご飯だってあるかもしれない。文章を打ち込むのに時間がかかる人もいれば、車椅子などで狭い道を通れなかったり、階段を登れない人もいる。

障害者の方は、まだまだ行ける場所や行動の手段が限られる。エレベーターがないとこだってあるし、車椅子では行きにくい場所も多いからだ。でも僕はどこにでも行ける。自分の身体に障害がなく、自由に動かせるから。

僕は健常者というだけで恵まれてしまっている。

右利きということ

僕は右利きだ。箸は右手で持つし、右手で字を書く。右手で包丁を握るし、右手でジュースを買う。交通系ICも右手で出すし、パソコンのエンターキーも右手で押す。

左利きの人はどうだろう?箸は左手で持つだろうし、次は左手で書くだろう。包丁は左手で握るだろうし、ジュースは左手で買うだろう。ただ、パソコンのエンターキーや交通系ICは違うかもしれない。

パソコンのエンターキーは右手で押すかもしれない。だってキーボードの右側にあるから。交通系ICも右手で出すかもしれない。だって右側にタッチ部分があるから。そもそもジュースを買うときも、体を右に寄せているかもしれない。だってお金の入れ口は右にあるから。

左利きの人は、左利きというだけで手間や時間がかかる時がある。世の中で右側にあるものに、合わせる必要があるから。でも僕にはそれはない。なぜなら僕は右利きだから。

僕は右利きというだけで恵まれてしまっている。

恵まれてしまっている

僕は間違いなく恵まれている。それは僕が男性で、異性愛者で、健常者で、右利きだから。僕だけが恵まれてしまっている。

しまっているのだ。

僕は何もしていない。ただ生まれ、ただ人を愛し、ただ生活しているだけだ。でも何もしていない僕だけがこんなに恵まれてしまうのはおかしいんじゃないか。女性だって、性的マイノリティの方だって、障害者の方だって、左利きだって、何も変わらない。ただ生まれ、ただ人を愛し(もちろん愛さないのも含め)、ただ生活しているだけだ。

どんな人でも恵まれなければおかしいはずだ。僕たちは人間だ。そこに差はない。性別や愛情や心体に差はあれど、同じ人間だ。同じ人間なのに、何もしていない状態、そのままの状態、ありのままの状態で恵まれない人がいていいわけがない。

世間や社会は「多数」に目を向けるし、「多数」の中で意思決定をしてしまう。勝手に「アタリマエ」を生み出し、その「アタリマエ」が生きやすいようにする。でも違う。そんな「アタリマエ」は当たり前なんかじゃない。自分たちで勝手に生み出した「普通」で、他のものや人を見ようとしていないだけだ。

特に日本では、それが顕著な気がする。「多様性」という言葉ばかりが先に行ってしまい、本当の多様性を考えたことはあるのか?この社会や世界にどんな不平等があるかを、見定めようとしたことはあるか?そんな不平等と無条件で向き合わなければいけない人たちがいることを、想像したことはあるか?

こんな意見は偽善だし、ユートピアのような妄想だと言われるかもしれない。確かにそうなのかもしれない。でも、だからって、今苦しんでいる人がいる中で、それを見てみぬふりをすることは絶対に違う。正直、僕はこれらの不平等とはこれまで無縁に生きてこれたと思う。でもそれゆえに、この幸せが一部の人にしか享受出来ないことが、とてもおかしいと感じる。

確かに、具体的な制度やシステム、製品や環境に落とし込もうとしたときに、困難を感じる部分はあるかもしれない。でもそのベースに、たくさんのいろんな人たちと向き合おうとする気持ちは、絶対に�� �くてはならないものじゃないだろうか?

世界は今、大きなうねりの中にある。それは同時に、これから先の未来に、今までの経験が役に立たなくなるということでもある。だからこそ今、改めて自分たちの足元を見直すべきなんじゃないだろうか。何もかもが変わってしまう世界なら、今までの「アタリマエ」や「普通」にこだわることなく、本当に一人一人が生きやすい世界を考える必要があるんじゃないだろうかと、僕は思う。

<参考にした記事>

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