生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

大人の階段を登ったら、のり弁が置いてあった

職場でのこと。
昼ごはんに弁当を買って食べていた。
そのとき職場の人と話になった。

上司「それのり弁?」
僕「そうですね」
上司「子供ってさのり弁食べないよね?うちの子も唐揚げ弁当選ぶんだよ」
僕「あー、でもわかります。僕もここ数年ですもん、のり弁買うようになったの」
上司「のり弁ってなんか大人の弁当って感じだよね」
僕「確かに、なんかそんな感じしますね」


なぜのり弁は大人の弁当なんだろう?ふと考えた。
というかそもそも、僕はいつからのり弁を買うようになったんだっけ?

子供のころ

子供の頃の僕の最強弁当は、唐揚げ弁当だった。唐揚げのジューシーさとボリューム感。常にお腹を好かせていた僕にとって、それは食欲全てを満たしてくれるものだった。

唐揚げという主役はまるでヒーローのようだった。俺にまかせろ!それを言い切れるほどに、唐揚げの存在感は大きかった。

他に何が入っていようが関係ない。唐揚げさえあれば、この弁当は成立する。そんな風に弁当自体を背負っていた唐揚げは、戦隊モノのレッドや、仮面ライダーのようにも見えていた。

主役がいれば問題ない。これはテレビの中だけじゃなくて、現実のいろんなところに当時の僕は感じていた。

将来の夢は、プロテニスプレイヤーとか社長とか。一人で大きな責任や仕事を抱えている人をイメージしていた。

決してサラリーマンなんかになりたいとは思わなかった。有象無象の雑魚キャラや、咬ませ犬のような味方キャラにはなりたくない。

敵を倒し、多くの人を笑顔にする。そんな唯一無二の主人公、ヒーローに僕はなりたかった。唐揚げ弁当の唐揚げは、まさにそんなヒーロだった。

大人のいま

ただあるときを境に、僕はのり弁を買うようになっていた。それは、僕自身が、仕事などで大勢の人と関わるようになった時期と重なる。

僕はヒーローにはなっていなかった。かつての僕が大嫌いだった、一組織の人間として、日々の作業を行う生活をしていた。

そんな時に目に入ったのが、のり弁だった。唐揚げのように、ちくわの磯辺揚げや、白身魚フライなど、主役を張れるほどインパクトの強いおかずはない。でも僕はそれを手に取っていた。

それが僕の生まれて初めてののり弁だった。ちょっと感動した。

揚げ物に加えて、ご飯の上に引いてあるのりや、鰹節。細かな惣菜など、味の変化にとても富んでいた。飽きることなく、食べ進めることができた。

何より、それぞれがいいバランスを保っていた。フライで口が油で重いと感じたら、ノリで落ち着けたり、惣菜を食べたりする。どのおかずも、悪い部分が出ないように、互いに助け合っている。

あ、これって人間と同じだ。

そんなことをふと思った。仕事などで多くの人と関わるようになってから、僕の中で明確に変わった感覚がある。それは知識ではなく、肌感覚で身についた経験に近いものだ。

誰も一人では生きていけない。

かつて僕が夢見た社長やスポーツ選手も、それをサポートしてくれる大勢の人がいるからこそ活動ができている。

確かに中心となる人物はいるかもしれないけれど、その中心からはとても大きな円が広がっている。その円が縁となってつながり、一つのチームになっている。僕が見ていた人々は有象無象の人間ではなく、チームの一員だった。

そんな当たり前のことに気づくのに、僕は20年以上もの月日を費やしてしまっていた。でも気づけたからこそ、僕は今、かつての自分が嫌っていた、チームの一員になっている。

のり弁も同じだ。のり弁という名の下に、いろんなオカズや食材がチームとして集まっている。互いの足りない部分は補い合って、いい部分が出せるようになっている。チーム「のり弁」として、大きな旨味が出せるようになっている。

確かにのり弁には唐揚げのような主役がいない。でもそれは同時に、チームとしての完成度を高めている。
もちろん主役がいる唐揚げ弁当も美味しい。ただ今の僕は、主人公が強いだけのものよりも、みんなで強さを生み出しているものの方が好きなのかもしれない。

「もしかして大人になって、いろんな人に出会えたから、のり弁が食べたくなったんじゃないかな」

そんなカッコつけたことは絶対に口には出せないのだけど、なんとなくそんな気がしたまま、僕はのり弁を完食した。