生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

書きたいことは山ほどあるのに、僕がそれを許さない

先日と真逆のタイトル。

お前は書きたいことがあるのかないのか、どっちやねんとなる。結論だけを言うなら、それは時と場合によるとしか言えない。書きたいものが全くないときもあるし、書きたいことだらけのときもある。人間そんなもんじゃないですか?

今は「だらけ」のとき。書きたいことが、頭にポンポンポンと浮かんでいる。じゃああとはそれを書けばいいじゃん、という話になるのだけれど、ことはそう簡単じゃない。何を隠そう、この「僕」自身がそれを許さないのだ。

僕の書きたいこととは、書きたいテーマやアイデアということになる。テーマの場合はエッセイ、アイデアの場合はコラムに近くなる。その違いはあまり大きな問題ではない。問題なのは、これらが「文章」ということだ。

いやいや、noteで書くんだから文章って当たり前じゃん!と思ったそこのあなた、大正解だ。noteでエッセイやコラムを書くのだから、文章になるのは至極当然のことなのだ(もちろん絵や写真を使うということもあるだろうけど)。でもそれが一番の問題になる。なぜならそこには流れがあるからだ。

エッセイでもコラムでも、文章には流れがある。エッセイならば、物語のような流れ、そのテーマの起承転結みたいなものだ。一方でコラムならば、その伝えたいアイデアにたどり着く、論理的な流れ。数学の証明のようイメージが近いかもしれない。どちらも、その流れがちゃんとしてこそ、いい文章になると僕は思っている。

ところが、この流れを形作るのが難しい。書く前にざっくりと構想を練って、書きながら随時修正を行っていく。そして、終わってから見直して、流れを整え、ようやく執筆が終了する。これには、当たり前だけど時間と労力がかかる。あと正解もわからない。

もちろん数時間もかかるとかいうものじゃない。30分とか、1時間程度のものだ。でもそれでは遅すぎる。僕の頭の中にアイデアが出てくる速度に対しては。でもだからって流れを整える過程は省けない。なぜなら、それが文章だから。僕は自分の想いや考えを伝えるのに、文章という選択肢を選んでいるから。だからそこは絶対に譲れない、譲ることを許さない。

そんなことをしていると、ときに頭の中がアイデアで溢れまくる。早く形にしてくれと迫る声で、やかましくもなる。その声に押され、僕も急いで形にしようとしてみるけど、結局できない。それは僕が書いているものが、文章だから。僕が書きたいものが、エッセイであり、コラムだから。そうして今も僕の頭は、破裂しそうなほどに、テーマやアイデアがうごめいてしまっているのだ。