生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

「ちゃんとしなよ」の「ちゃんと」ってナニ?

「ちゃんとしよーよ!」

僕が最近見ていたアニメでこの台詞が聞こえてきた。記憶喪失のキャラクターが壁に落書きしていたのを、主人公が見つけて言った台詞だった。ここでの意味は簡単だ。「(壁に落書きなんかしないように、)ちゃんと(した振る舞いを)しよーよ!」という意味だ。でも僕はこの台詞が少し引っかかってしまった。

「ちゃんとしよーよ」の「ちゃんと」ってなんだろう?

いわゆる「ちゃんと」とは

多くの人が口にする「ちゃんと」がどういう意味かを、改めて確認してみよう。

1 少しも乱れがなく、よく整っているさま。「部屋の中をちゃんとかたづける」「いつもちゃんとした身なりをしている」
2 確実で間違いのないさま。「言われたことはちゃんとやる」「ちゃんとした職業につく」
3 結果が十分であるさま。「朝食はちゃんと食べてくる」
4 すばやく動作をするさま。さっと。「鉦 (かね) と撞木 (しゅもく) のやうに―だまんな」〈黄・御存商売物〉
引用:goo国語辞書https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%A8/

この中だと、「ちゃんとする」というニュアンスに近いのは1か2だと思う。「〇〇さんはちゃんとしてるね」、とか、「ちゃんとしなさい」とか。さっきのアニメのセリフもこのニュアンスで間違いないだろう。

これらを言われるシチュエーションは、大体他人から言われる。見た目を指摘されたり、生活態度を指摘された利、仕事に関して指摘されたり。相手から見た時に、気になってしまうことがあると言われることだと思う。

でもこれを僕は少し押し付けがましく感じてしまう。なぜならこの「ちゃんと」いうものには絶対的な基準がないから。

「ちゃんと」=他人基準

「ちゃんと」とは他人が基準となる考えだ。Aさんから「ちゃんとしなさい」と言われた僕たちがとる行動は、AさんがOKを出すように、振る舞いを改善することだけだ。つまり、Aさんの「ちゃんと」に合格するようにするということ。

自分で自分に「ちゃんとしよう」という場合もそれは変わらない。そのときに参考にするのは、いわゆる世間一般の「ちゃんと」だ。周りの友人がいうもの、メディアで見てきたもの、親から言われてきたもの、それらを基準に自らの「ちゃんと」を設定する。他人の目を自分でマネすると言えるかもしれない。

こんな風に「ちゃんと」というのは自分に基準がない。誰かの基準を、シンプルに表すときに「ちゃんと」という言葉が使われるだけなのだ。つまり「ちゃんと」は一見正論のように見えて、実のところ自分の価値を相手に押し付けているだけなんじゃないかと思う。さらに気になるのが、この考えに基づくと「ちゃんと」がとても曖昧なものになることだ。

「ちゃんと」が起こすズレ

「ちゃんと」の正体が、他人の価値の押し付けだとすると、「ちゃんと」自体がとても曖昧なものということに繋がる。簡単な例で行けば、僕の身なりにAさんが「ちゃんとしている」と思っても、Bさんが「ちゃんとしていない」と感じることがあるからだ。このとき、二人とも使っている言葉は同じ「ちゃんと」なのに、それが指しているものにズレが発生してしまっている。

また地域単位でもこのようなズレは発生する。例えば、日本で「ちゃんとしている」ことが、他の国では「ちゃんとしていない」ことになるなんてことはいくつもある。麺類をすする音なんかは、わかりやすいかもしれない。逆に、他国で「ちゃんとしている」ことが日本では「ちゃんとしていない」こともたくさんあるはずだ。こんな風に、地域という視点から考えたときでも「ちゃんと」が示すもののズレは起こってしまう。

こんな感じで、「ちゃんと」はとても曖昧なものだ。何をすれば「ちゃんと」になるのか、何ができていないと「ちゃんと」にならないのか。この線引きは、人や地域、もっといえば文化などの、様々なシチュエーションで大きく変わってしまう。そう考えると、「ちゃんと」という言葉が持っている、他人に価値を押し付けるという性格は、かなり堅苦しいものだと感じてしまう。

「ちゃんと」しすぎなくてイイんじゃね?

ここからが僕の言いたいことだ。要するに「ちゃんと」なんてものは、思っていたよりも曖昧なものなんだから、もっとみんな「ちゃんと」しなくてイイんじゃないか?ってこと。もちろん気にする人は気にするので、その時の環境や、周りの人との関係性を考慮する必要はあるかもしれない。

ただこの国では、あまりにもみんなが「ちゃんと」しすぎている気がする。いわゆる横の意識が強いということに繋がるのだけれど、自分は「ちゃんと」しているのに、あいつは「ちゃんと」していない、ということが余りにも許せなさすぎじゃないだろうか。

その延長線上に、すごいクレームを入れる客や、就活生のテンプレ化された見た目、女性のパンプスやヒールの問題、また最近でいう自粛警察が生まれている気がする。もちろんこれらの被害者が最も苦しいのだけれど、僕は同時に、加害者も生きにくそうだなと感じてしまう。

自分の中の価値観があまりにも強すぎて、周りが「ちゃんと」していないことが許せない。どいつもこいつも「ちゃんと」していない!とストレスを抱えながら生きているのって、とても疲れるように思ってしまうのだ。でもこれは、一部の過激な人たち以外にも言えると思う。

普通に生活する人たちでも、周りと比べたときに「ちゃんと」しなきゃ、って思う人も結構多い。でもその「ちゃんと」を意識しすぎた結果、逆に毎日辛くなってないですか?って、僕は聞きたい。イイじゃんたまには、家事をサボっても。イイじゃんたまには、子育てから離れても。イイじゃんたまには、仕事ずる休みしても。イイじゃんたまには、一日中ゴロゴロしていても。もちろん程度はあるけども、それぐらいでイイんじゃないだろうか。

みんなの「ちゃんと」は社会の「ちゃんと」になっていく。もちろんそれで人が生きやすくなる部分もある。ただ一方で、本当に必要な「ちゃんと」がどれだけ社会にあるだろう?そういうことを一度考えてみると、意外と�� �会にある「ちゃんと」の数が少なく見えたりする。自分が楽しく生きていくうえで、いらない「ちゃんと」はやめてしまってもイイんじゃないか。そしたらみんなが少しずつ、生きやすい社会に変わる、そんな気がする。