生きるのが下手くそなエッセイ

人生に悩みまくりの僕カシコが、エッセイやコラムを気が向いたときに書いていきます

ずるいぞ、任天堂

最近、任天堂の新しいCMを見かけた。

相変わらずずるいCMだ。何かをクリエイトすることに長けている、星野源×任天堂なんて、絶対いいに決まっている。案の定、新曲おろして、これでもかというほどマリオを登場させて、アルバムの「YELLOW DANCER」みたく、黄色のカセットでYELLOW MAGICと歌う。おいおい、超楽しいCMですな。

任天堂のCMはいつでも任天堂とわかる何かがある。その何かは、いつも僕の心を揺さぶってきて、くっそずるいな、任天堂!と笑顔で怒ってしまう

僕と任天堂

僕と任天堂の出会いは古い。小学校に入る前、おじさんの家にあったスーパーファミコンが始まりだった。刺さっていた「スーパードンキーコング」のソフトを、操作がおぼつかないながらも楽しんでいた。ちなみにこのソフト、難易度が高くて有名だったことを数年前に知った(笑)そこからかれこれもう20年以上、僕と任天堂の関係は続いている。

別に任天堂以外のゲームをしないわけじゃない。初代プレイステーションセガサターンなんかもよく遊んだし、PS2PS4では「キングダムハーツ」のタイトルを10年ぐらい追っかけている。ただ、SonyのゲームのCMと比べても、任天堂のCMはやっぱり任天堂のCMなのだ。

任天堂のCMで、僕がここ数年で衝撃を受けたCMを二つ挙げよう。一つは「NINTENDO LABO」の初公開映像。

見たこともないゲームが生まれるというワクワク感、そしてそれがある生活というものがとても輝いて見えた。そもそもVRが流行り始めた時期に、VR?何それ?段ボールやで!と、かませるのは本当に任天堂だなと思った。

もう一つは、もうすぐ発売する「スーパーマリオ 3Dコレクション」のCMのうちの一つ。

このCMの何が衝撃だったかというと、このCMはマリオサンシャインのプレイヤーのトラウマを呼び起こすものということ。具体的には、CM内で男性がプレイしているステージが、序盤のトラウマとして、多くのサンシャインプレイヤーに刻み込まれているステージになっている。そして案の定全くクリアできない男性を見ながら、「これは俺らじゃんw」と笑ってしまう。

任天堂らしさ

僕が思う任天堂らしさとは人だ。任天堂のCMはそこにいる人に想いをはせる。ゲームというのは、それ単体であるんじゃなくて、僕たちプレイヤーがいて初めて完成するもの、どこまでも人に関わるものなんだ、というスタンスや信念が伝わってくる。

それは同時に、任天堂のCMが僕らの当時の感覚を呼び起こさせることに繋がる。リメイクの作品なら、CM内の男性のように苦労した夜のことを。宿題をサボりながらやっていた日のことを。親に無理やり止められたりしたことを。買ってきたゲームの箱を開けるときのワクワク感を。その全部を思い出させてくれる。

新作のCMなら、それが今の子どもたちにもあるのだと思わせてくれる。CMから伝わってくるワクワク感は、あのとき僕たちが感じていたものとなんら変わらない。時代は変わってもゲームという体験を通して、任天堂はあの頃からずっと変わらず、あの感動やワクワク感を、今を生きる子どもたちに届けているのがわかる。

もちろん任天堂にも苦境の時代はあった。僕と出会ってからでも、インターネットの普及や、スマホの登場など文字通り世界が大きく変わる変化があった。その中では、人の遊びや営みも大きく変わってきた。でも、任天堂はちゃんと自分たちを貫いてきた。時代の変化に、ユーザーの変化に、テクノロジーの変化に翻弄されながらも、僕たちプレイヤーの笑顔を生み出し続けてきた。そんな真っ直ぐに立っている姿を見たら、かっこいいと思っちゃうのは当たり前なんだよな。ずるいぞ、任天堂